ハマモト経営HOME

「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

繁栄が続く期間とリーダーの押さえどころ(3)短命の原因      


これに対して、

・周辺諸国の武力討伐に血道を上げる
・国内の土木工事を必要以上に行う
・天子みずから贅沢三昧の暮らしをする
・人民に過酷な税を課す
・天子の周辺に良臣でなく佞(ねい)臣を
 置く
・賢人の意見を用いない
・内部抗争を繰り広げる
・比較的早い段階で創始者が亡くなる

などの場合、王朝は短命に終わりやすい。

秦(しん)の始皇帝は紀元前二百二十一年に
中国を統一したが、紀元前二百六年、
わずか十五年後に秦は亡びてしまった。

始皇帝自身は統一後、亡くなるまで
十一年間は天子として政権を運営したが、
その内容は先の短命の条件に
あてはまるものが多かった。

結果的に民を苦しめた。

新(しん)王朝は西暦八年から二十三年まで
で、秦と同じく十五年で幕を閉じた。

西漢王朝を簒奪(さんだつ)し、
新を立国した王莽(おうもう)は、
儒教にもとづく政治改革は評価できる部分が
あるものの、貨幣制度の改革を急ぎすぎて
国内に混乱を招き、新制度に違反する者
十万人以上を投獄し、その多くを殺した。

全国各地が旱(かん)害や蝗(いなご)の
大群に襲われるなどして食糧がなくなり、
あちこちで暴動が起こると、
王莽の政権は維持できなくなった。

この失敗も国民を苦しめたことが大きい。

南北朝時代の宋(そう)
(帝室の姓から劉宋〈りゅうそう〉とも
呼ばれる)は、西暦四百二十年から
四百七十九年まで、五十九年間続いた。

高祖武帝は即位後わずか三年で死去。

しかし、三代目の太宗文皇帝が名君で
三十年間君臨し、元嘉(げんか)の治と
よばれる政治を行って国政が安定したことで
国の寿命が伸びた。

文帝の晩年、北魏(ほくぎ)の侵攻にあい、
都市も農村もすっかり荒れ果てた。

その後、文帝は太子に殺害され、
その太子も弟に殺され、といった具合に
皇室内での争いが激しくなり、
最後は権力を握った宋の武将に簒奪された。

内部抗争が短命の原因であった。

隋(ずい)王朝は、西暦五百八十一年から
六百十八年まで三十八年間続いた。

この王朝の創始者である高祖
楊堅(ようけん)は、
北周(ほくしゅう)王朝に仕えた重臣で、
娘が皇后になったときから
外戚として勢力を伸ばし、
北周を奪って隋王朝を開いた。

その後、南朝の陳(ちん)を平定して
天下を統一。

在位は西暦五百八十一年から六百四年、
つまり二十四年間に渡っており、
内政の充実にも力を入れている。

決定的な過ちは、太子の選定にあった。

煬帝(ようだい)という次の皇帝が
あまりにひど過ぎたのである。

先の短命の条件のほとんどを満たした
煬帝は、父が築いた王朝を
あっという間に亡ぼしてしまった。

短命に終わる王朝の多くは、

まず内部が崩れ、そこに外部がつけ込む

というパターンが多いようである。

企業においても外部の環境変化への対応は
大切なことであるが、それができないのは
内部に問題があるのだ。

外部でもっとも近いところにいる既存客の
変化すら会社の上層部へ伝わらないとか、
あるいは伝わっていても対応しないと
いうのは、内部の組織力、経営力の
問題である。

先の短命王朝の条件を応用して
考えてみるならば、

・既存顧客を放っておいて新規客獲得に走る
・新社屋の建設、施設の拡大などを
 必要以上に行う
・社長みずから贅沢三昧の暮らしをする
・顧客から法外な利益をむさぼる
・社長の周辺に良臣でなく佞(ねい)臣を
 置く
・外部ブレーンなどの意見に耳を傾けない
・内部抗争を繰り広げる
・比較的早い段階で好業績をあげた社長が
 退任する


などの問題をひっきりなしに
発生させている企業は、
短命とならざるをえない。

→続く「豪奢から転落が始まる…(1)唐の玄宗の転落」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

inserted by FC2 system