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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

 豪奢から転落が始まる…(1) 唐の玄宗の転落      


人は貧乏な家庭に生まれても、
そのような生活しか知らなければ十分に
幸福を感じられるものだ。

ところが、何かをきっかけに富を得て、
わずかな贅沢を経験すると、
それがやめられなくなる。

仮に元の生活に戻らざるを得なくなったら、
今とはほんの少しの差しかないにも
かかわらず

「自分は不幸である」

と思うのだ。

わずかな贅沢が積み重なり、
豪奢な暮らしに達すると、
周囲の人間があきれるほどの
きらびやかな生活に明け暮れてしまう。

そうなったらあとは転落するのみなのだが。

唐の玄宗(げんそう)皇帝の在位期間は
四十四年間と、唐王朝の歴代皇帝のなかで
もっとも長く、その前半は

「開元(かいげん)の治」

と呼ばれて、太宗の

「貞観の治」

と並び称せられるほどのすばらしい政治を
行った。

名君である。

開元三年(西暦七百十五年)、
盧懐慎(ろかいしん)という人物が宰相と
なったが、この男は人柄が慎み深く
清らかで、万事につけて質素であった。

官から賜ったものもすぐに親戚や知人に
ばらまいてしまい、いつも妻子は飢えと
寒さにさらされ、その住居は風雨を
防ぐにも十分でなかった。

このような人物が宰相の地位にあった
うえに、玄宗自身の暮らしも質素であった。

開元二十一年(西暦七百三十三年)、
韓休(かんきゅう)という人物が宰相と
なった。

韓休は性質が厳格で真っ直ぐな人物であった
ので、玄宗は、時に酒宴などでいささか度を
過ごして遊び楽しむことがあると、
その都度、お側の者に、

「韓休に知られてはいまいか」

と心配してささやいた。

そして、その言葉を言い終わるや否や、
韓休からの諫めの書状が届くという
有様であった。

お側の者が、

「韓休が宰相となってから、
 陛下はことのほか、
 お痩(や)せになりました」

と、暗に韓休の罷免をほのめかした。

すると玄宗は、嘆息して言った。

「私は痩せたけれども、
 韓休のおかげで天下は肥えた」

このような玄宗の言葉から、
玄宗の暮らしぶりが浮かんでくる。

豪奢とはかけ離れた質素なものだったに
違いない。

玄宗がいつまでも盧懐慎や韓休などの
人物に囲まれていたら、
後の転落は無かっただろう。

韓休が職を辞すると、開元二十二年、
張九齢(ちょうきゅうれい)が
後を継いで宰相になった。

この張九齢も名宰相のひとりである。

しかし、このとき、李林甫(りりんぽ)と
いう人物も役職を得て朝政に参与するように
なった。

この男は、見かけは柔和で人あたりが
よいが、口先がうまく狡猾な男であった。

宦官(かんがん)や女官などと手を結び、
玄宗の動静を探って知らないことはない
ほどであった。

このため、李林甫が玄宗に奏上するとき、
あるいは下問に答えるときは、
いつも玄宗の思し召しにかなっていた。

開元二十四年、玄宗の誕生日のお祝いに、
群臣は皆、それぞれ宝としている鏡を
献上したが、張九齢だけは、
前代の盛衰興亡について研究した
「千秋金鑑録(せんしゅうきんかんろく)」
五巻を鏡の代わりに献上した。

玄宗にとって張九齢は、ただわずらわしい
だけの存在となっていった。

李林甫が張九齢を中傷したことで張九齢は
職を解かれ、ついに李林甫が宰相となった。

玄宗は帝位にあることが長く、
次第に奢りの心が増長してきた。

そこにつけこんで李林甫が政権を
独占するようになったのである。

これに輪をかけて、楊貴妃(ようきひ)や、
あわや唐王朝を亡ぼす寸前まで追い込んだ
安禄山(あんろくざん)が
玄宗を堕落させた。

一身に寵愛を受けた楊貴妃のおかげで、
楊氏一族は次々に出世して権勢をふるった。

また、楊氏と義兄弟となった安禄山は
東平(とうへい)郡王の爵位を賜るなど
出世した後、手にした大軍を率いて謀反を
起こした。

これより前だが、国家の会計係から、
国家の金銀、錦帛(きんぱく)などを
おさめる蔵がいっぱいになったという
奏上がたびたびあり、
玄宗は群臣を率いて見物に出かけた。

このときから玄宗は、金銀、錦帛をまるで
糞土(ふんど)のようにみなして、
臣下に賞賜(しょうし)することが
無制限となった。

開元の治を行っていた頃の玄宗とは
まるで別人である。


心の緩みはモノの扱い方や暮らしぶりに
ハッキリ表れるのだ。

→続く「豪奢から転落が始まる…(2)唐の憲宗も転落」
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