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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

繁栄が続く期間とリーダーの押さえどころ(2)長命の理由      


高祖劉邦(りゅうほう)が築いた
西漢王朝は、紀元前二百六年から八年まで、
二百十四年続いた。

劉邦が亡くなった後、呂(りょ)后の政治が
続き、あやうく呂氏に簒奪されそうな場面も
あったが、生前の劉邦を支えた
陳平(ちんぺい)・周勃(しゅうぼつ)らは
期を見て呂氏を粛清して劉邦の庶子を
即位させた。

孝文(こうぶん)皇帝である。

文帝は法を恣意的な判断で曲げるということ
がなく、また、身体を傷つける肉刑を
廃止するなどして民を安心させた。

自ら華美を廃して質素倹約を励行したため、
人民は過酷な税に苦しめられることも
無かった。

基本的な政治姿勢は、劉邦以来の政策を継承
して民力の休養に努め、国内の充実を図ろう
とするものであり、これを維持できたことが
西漢王朝の土台となったといえるだろう。

光武(こうぶ)帝が開いた東漢王朝は、
西暦二十五年から二百二十年まで続いた。

能力も人望も兼ね備えた光武帝が三十一歳で
即位し、三十三年間も君臨して国内を
統治したことが土台となった。

外征を嫌い、収賄事件など内部の腐敗は
容赦せず取り締まり、高節の士を重んじた
光武帝の御世は、国内はよく治まった。

その後、孝明(こうめい)皇帝、
孝章(こうしょう)皇帝、
孝和(こうわ)皇帝と続く間も、
礼を中心とした社会規範が尊重され、
皇帝の権力は維持されたのである。

しかし、その後は外戚と宦官(かんがん)
の権力が増大して
徐々に破滅に向かうことになった。

唐(とう)王朝は西暦六百十八年から
六百九十年、即天武后(そくてんぶこう)の
時代をはさんで七百五年から九百七年の
二期に渡り、二百七十年余も続いた。

実質的な唐の建国者、李世民(りせいみん)
は六百二十六年から六百四十九年の
二十三年間、みずからが国を治めて
太平の世の模範とされる

「貞観(じょうがん)の治」

を行った。

多数の賢人を登用して朝政(ちょうせい)を
行い、国民は安らかな生活を得た。

宋(そう)王朝は西暦九百六十年から
千二百七十九年まで、北宋から南宋へと
国土の縮小を余儀なくされながらも
約三百二十年間、王朝を持続した。

宋を建国した趙匡胤(ちょうきょういん)
も、西暦九百六十年から九百七十六年と
十六年間、君臨して、人望の厚い者を登用、
抜擢し、よく意見を聞いて政治を行った。

このように、
初期の段階でしっかりと
民心をつかむ政治を行った場合、
政権は長く続きやすい。


→続く「繁栄が続く期間とリーダーの押さえどころ(3)短命の原因」
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