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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

 泣いて馬謖を斬る(3)    武帝のあやまち      


公孫鞅は過酷ではあっても、
冷酷ではなかったと思うが、
なかには刑の執行を喜びとする冷酷な
人間もいる。

西漢の武(ぶ)帝は法律制度で人民を
統制したが、これを確実に施行するため
冷酷無情の役人を重く用いた。

武帝の晩年に巫蠱(ふこ)の事件が起きた。

巫蠱とは一種の呪術である。

一人の巫女が宮中に出入りして、

「木の人形を土中に埋めて祭ると、
 危難から救われる」

と告げたことから、これを女官たちが信じて
実行したのだが、狙いは武帝の非道ぶりを
呪うものであるという噂が立った。

夢で数千の人形に襲われた武帝はこの夢を
気に病んで病気となり、甘泉(かんせん)宮
にひきこもった。

事件の処理について、武帝は信頼している
酷吏の江充(こうじゅう)に任せ、
この巫女のまじない事件を調査させた。

江充はかつて太子の法令違反を見つけたこと
があった。

太子は武帝には秘密にしておいて欲しいと
頼んだが、江充はお構いなく武帝に報告し、
武帝もそのような江充の態度を誉めて
ますます信用するようになった。

それで、かねてより太子と不仲であった
江充は、武帝亡き後も権力を手放したく
なかったため、あらかじめ太子が住んでいる
東宮(とうぐう)の地下に人形を多数、
埋めておき、その後に東宮の下を掘った。

そして、

「のろいの木の人形が山ほど出てきました」

と報告した。

このとき江充は、太子の犯行とするために
周到に手を打った。

まず民間の取調べを行い、密告を奨励し、
被疑者を拷問にかけるなどした。

民は互いに巫蠱であると密告し合う
ようになり、そのたびに大逆罪として
殺したため、数万人が死んだという。

そしてようやく、
捜査が東宮にたどりついたようにした。

太子は、禍(わざわい)の及ぶことを
恐れて、江充をおびき出して捕縛し、
斬殺した。

そして母の皇后に告げて、
宮中の厩(うまや)から軍用馬車を出し、
弓の名手を載せ、武器庫からは武器を
持ち出し、長楽(ちょうらく)宮の
護衛兵に出動を命じた。

武帝はこれを聞いて大いに怒り、
すぐに甘泉宮からもどって都下三郡の
兵を集め、丞相を総大将にして
太子を伐(う)たせた。

太子も武帝の命令といつわって兵を
繰り出し、丞相の軍と会戦。

五日間の戦闘で、死者は数万人に及んだ。

結局、皇后は自殺、太子は逃げて
湖(こ)県へ行き、首をくくって死んだ。

後に、高祖廟(びょう)の守護役から、
次のような上書があった。

「白髪の老翁が現れて、
 私に教えて言いました。

 子が父の兵を勝手に動かした罪は、
 鞭(むち)打ちの刑に相当するだけで
 死罪ではないと」

そこで武帝はようやく悟った。

「これは高祖の神霊が私にあやまちを
 教えたのだ。

 太子に罪は無かったに相違ない」

そこで、武帝は湖県に
帰来望思(きらいぼうし)台という高楼を
築き、太子の魂が帰り来ることを願った。

天下の人民はこれを聞いて共に悲しんだ。

法律を遵守することは大事であるが、
人の揚げ足を取ることを喜ぶような人間が
刑罰の執行を行う世の中になると、
怨みが高じ、
最終的に人は暴力に訴えるようになる。

江充と太子の争いで数万人が死んだ
この一連の事件は、ただルールを決めれば
よいのではなく、その運用の仕方がとても
重要であることを教えてくれるものである。

→続く「泣いて馬謖を斬る(4)繆公の超法規的措置」
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