ハマモト経営HOME

「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

  寝首をかく者とその方法(1)董卓と呂布


敵が眠っている間や泥酔しているときなど、
完全に油断しているところに
そっと近づいて殺す。

相手は抵抗できないわけだから、
これは非常に楽な殺害方法である。

しかし、眠ったり酔ったりしている敵には、
当然ながら護衛がついており、
簡単には近づけない。

そこで、そんな姿をさらしてくれるまでの
関係になることが、
殺す側にとっては重要となる。

どう近づき、どう信用させるか。

これはかなり難易度が高い。

もしも、すでに信用されている者を
利用できれば、ことは簡単なのであるが。

東漢の末期、一時、朝廷を支配した
董卓(とうたく)の寝首をかいたのが、
その部下で養子にまでなっていた
呂布(りょふ)である。

当時の東漢王朝は、権力を思うままに
振るう外戚の圧力に、宦官(かんがん)を
味方につけた天子が対抗するという
構図となっていた。

孝霊(こうれい)皇帝が没した後、
子の弁(べん)が幼いながら即位し、
霊帝の正室で弁の生母の何(か)氏が
太后となって朝廷に臨み、
太后の兄の大将軍何進(かしん)が
政務を総括した。

ときに司隷校尉(しれいこうい)
(中央の官吏を取り締まる官職)の
袁紹(えんしょう)が、
何進に宦官を誅殺するよう勧めた。

しかし、何太后は反対していた。

そこで袁紹らは計略をめぐらし、
諸方の勇猛な将軍を兵とともに
都の洛陽に向かわせ、太后を脅かした。

このとき、将軍の董卓も呼び戻された。

しかし、董卓の兵がまだ到着しない
うちに、何進は宦官のために
殺されてしまった。

袁紹はすぐに兵を指揮して宦官全員を
捕らえ、若い者も年寄りもかまわず
皆殺しにしてしまった。

その数はざっと二千人以上に上ったと
いう。

鬚(ひげ)がないというだけで
宦官に間違われて殺された者もいた。

そうこうするうちに董卓が入城してきた。

そして、なぜこのような事態になったのか、
天子の弁に尋ねた。

弁は十四歳になっていたが、
言葉がはっきりせず要領を得なかった。

すると弟の陳留王(ちんりゅうおう)が
逐一答えて余すところがなかった。

董卓は弁を廃して陳留王を即位させようと
思ったが袁紹にはねつけられた。

それで董卓が怒ったので袁紹は恐れ、
洛陽から逃げ出した。

董卓は弁を廃して陳留王を立てた。
孝献(こうけん)皇帝である。

董卓の専横はすさまじかった。

「十八史略」に記載はないが、
奢ったふるまい、富豪からの金品強奪、
農民皆殺し、女官の凌辱などひどいもの
だったようである。

そこで函谷関(かんこくかん)より
東の州郡の諸将が袁紹を推して盟主とし、
董卓討伐の兵を起こした。

これに恐れをなした董卓は、
洛陽の宮殿や宗廟を焼き払い、
都を長安に遷(うつ)した。

孫堅(そんけん)
(三国志で有名な呉の孫権の父)や、
袁紹と祖先を同じくする
袁術(えんじゅつ)も
董卓討伐の兵を起こした。

董卓がしぶとく権勢を守る中、
司徒(しと)(田土・財貨・教育などを
司った官職)の王允(おういん)らが、
密かに董卓を誅殺する作戦を練った。

そこで登場するのが呂布である。

「三国志」によれば、
呂布はもともと丁原(ていげん)という
并州(へいしゅう)の長官に仕えており、
丁原が何進らの呼びかけに応じて何太后に
圧力を加えるため洛陽に入った際、
呂布も同行していた。

董卓は兵力が少なかったので、
宦官に殺害された何進の軍勢を吸収した後、
丁原の軍も奪うために丁原暗殺を計画。

董卓は呂布を誘って丁原を殺させたので
ある。

つまり、このとき呂布は丁原の寝首を
かいたわけだ。

董卓はずばぬけた腕力の持ち主である
呂布を目にかけていた。

自分の養子にまでしたのである。

ところが、ある日、呂布は些細なことで
董卓の機嫌をそこねてしまった。

董卓は戈(ほこ)を手につかんで呂布に
投げつけたが、それを呂布は身をかわして
避けた。

それ以後、呂布は董卓を怨んでいたので
ある。

王允は呂布と結託し、
董卓が朝廷に入るときに勇士を北門の側の
小門に待ち伏せさせて刺させた。

董卓は車から転落し、
大声で呂布を呼んだが、
呂布は

「詔(みことのり)を受けて賊臣を討つのだ」

と言うや否や、手にした矛(ほこ)で
董卓を刺し、さらに剣で斬り殺した。

つまり、呂布は二度までも主人の寝首を
かいたわけである。

→続く「寝首をかく者とその方法(2)呂布の末路
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

inserted by FC2 system