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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

  寝首をかく者とその方法(2)呂布の末路


さて、この呂布はその後、
どのような人生を送ったか。

長安のある関中(かんちゅう)の地から
逃れ、袁術のところへいった呂布は、
ついで袁紹を頼って身を寄せた。

やがてまたそこを去った後、朝廷の高官と
なっていた曹操(そうそう)と戦って敗れ、
逃れて徐州(じょしゅう)を領していた
劉備(りゅうび)に帰した。

続いてまた劉備の不意を襲って下ヒ(かひ)
の地を奪った。

そのため劉備は逃れて曹操を頼った。

曹操は、劉備を沛(はい)の地に
駐屯させた。

呂布は曹操のところへ部下の
陳登(ちんとう)を派遣し、徐州の長官に
なりたいと頼ませたが成功しなかった。

陳登が帰ってきて報告するには、

「自分は曹操どのに面会して
 『呂布将軍を養うのは虎を養うような
  ものです。

  飽きるまで肉を食わせねばなりません。

  そうしないと人を食ってしまいます』

 と申しましたが、曹操どのは

 『そうではない。

  呂布を養うのは鷹を養うようなものだ。
  
  飢えれば人になついて従うが、腹が
  膨れれば空に舞い上がり去ってしまう』

 と言っておられました」

呂布は再び劉備を攻めた。

劉備は逃れてまた曹操に帰した。

曹操は呂布を撃つべく、下ヒ(かひ)に
進撃した。

呂布は何度も反撃を試みたが、皆、敗北し、
ついに降伏した。

曹操は呂布を捕縛し、

「虎を縛るには急がねばならない」

といって、その場で絞め殺した。

呂布は董卓を殺害した後、袁術、袁紹、
劉備、曹操などの元を転々としたようで
あるが、劉備に仕えていた頃にも袁術に
そそのかされて劉備の寝首をかこうとした。

こういった行動を積み重ねたのであるから、
諸将に信頼されるわけがない。

曹操が

「呂布を養うのは鷹を飼うようなものだ」

と言ったが、これは曹操だけでなく、
大方の見方だったのであろう。

呂布の場合、周囲の人間の意見に左右される
ことが非常に多かった。

みずからの主義・主張、信念がない者は、
目先の欲にかられた場合、
いとも簡単に主人を裏切るのである。

→続く「寝首をかく者とその方法(3)中宗と韋后
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