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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

権力と硬直化(2)      王莽、仮皇帝に     


成帝が亡くなり、太子が即位した。

孝哀(こうあい)皇帝である。

成帝には子がなかったので、
元帝の孫が皇帝となった。

哀帝の祖母は傳(ふ)氏、母は丁(てい)氏
であり、彼らが外戚として政権を握り、
大司馬の王莽を罷免したが、
哀帝がわずか七年で亡くなると、
太皇太后(元帝の皇后の王氏)はまた、
王莽を大司馬にして尚書(しょうしょ)
(審査を通った法案を行政化する役所)の
事務を統括させた。

その後、同じく元帝の孫が即位した。

孝平(こうへい)皇帝である。

平帝は九歳で即位した。

太皇太后が朝廷に出て政務を行い、
大司馬の王莽が政治の実権を掌握した。

あらゆる役人は自分の仕事に関して
王莽の指図に従った。

元始(げんし)元年(西暦一年)、王莽に
安漢(あんかん)公という尊号を与えた。

元始四年(西暦四年)、
平帝は王莽の娘を娶って皇后とし、
安漢公に宰衡(さいこう)という、
周(しゅう)の周公や殷(いん)の
伊尹(いいん)を髣髴とさせる美号を
加え、諸侯や諸王の上に据えた。

元始五年(西暦五年)、
太師の孔光(こうこう)が死んだ。

成帝・哀帝以来、孔光らが三公となって、
西漢の禍(わざわい)を作り上げた。

媚びへつらう風土を醸成したのである。

その影響で、上書して王莽を褒め称える者が
四十八万人にも及んだ。

平帝は王莽に九種類の最高の恩賞を与えた。

十二月の臘(ろう)祭の日、王莽は毒を
入れた椒(しょう)酒を平帝に献じた。

平帝は亡くなり、
太皇太后は孝宣(こうせん)皇帝の
玄孫(やしゃご)を召し出して太子とした
が、王莽は摂政でありながら帝位に上って、
みずから仮皇帝と名乗った。

長らく西漢王朝の末期の推移を見てきたが、
中興の祖であった宣帝の次の代から皇帝に
よる親政がなくなっていることが分かる。

宦官や外戚、佞臣らが都合のよいように
政治を行っており、天子はただ言いなりに
なるばかり。

人民のことは忘れ去られた政治が続き、
最後には王莽が皇位を簒奪するに至って
いる。

企業においても社長や重役たちが顧客に
目を向けず、己の地位を守ることばかりを
考えて企業運営を行ったら、
組織は硬直化し、企業から魅力が無くなり、
顧客離れを引き起こして倒産に至るで
あろう。

顧客思考であればこうはならないのだが、
厄介なのは、彼らは口先ではいかにも
顧客のことを考えているかのような言葉を
発するので、改革が遅れることである。

言葉よりも行動の中身をよく観察して、
本質を見抜かねばならない。 

→続く「主人が亡くなると…(1)耶律楚材」
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