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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

主人が亡くなると…(1)   耶律楚材     


優秀な天子が生きている間は、政治が滞り
なく行われ、民の暮らしも豊かになる。

権力欲をもっている、その一族や臣下も
なかなか手を出せない。

ところが、その天子が亡くなると、
重しが外れて権力維持、奪取を狙う者が
動き出すのである。

結果として
組織を崩壊させてしまうこともある。

西漢(かん)王朝では、
高祖劉邦(りゅうほう)や、
中興の祖である孝宣(こうせん)皇帝が
亡くなった後に大問題が発生した。

先の項で書いたように、
宣帝の後は衰退の一途をたどり、
西漢は滅亡してしまったのである。

唐(とう)王朝でも、
名君であった太宗李世民(りせいみん)の
没後に即位した高宗は、
武后に政治を牛耳られ、一時期、
王朝を簒奪されてしまった。

西暦千二百四十一年十一月、元(げん)の
太宗、窩闊台(おごたい)は
狩猟に出かけて亡くなった。

五十六歳だった。太宗は度量が広く、
思いやりは深く、時と物をよくはかり考えて
行う人だったので間違いが無かった。

中国本土は繁栄して富み、
人民は仕事を楽しんで、旅行者も糧食を
携帯する必要がなかった。

当時、治平(ちへい)の世と称された。

元は太宗の没後、
皇后の乃馬真(ないばしん)氏が朝廷に
臨んで政治を行い、政令を出すことが
五年続き、その間、君主を立てなかった。

元の中書令(ちゅうしょれい)(行政の最高
職)に耶律楚材(やりつそざい)という者が
いた。

皇后は、かつて太子のことについて楚材に
尋ねたところ、楚材はこう答えた。

「これは他国からまいった私などが意見を
 述べるようなことではございません。

 太宗のご遺言のあることでございますの
 で、それを守ってお決めになれば、
 国家にとって幸せなことでございます」

この言葉から分かるように、耶律楚材には
自分の権力を強めようというような私欲が
まったくなかった。

あるとき、皇后は、太宗がかつて天子の印を
押した白紙をある寵臣に渡し、彼が勝手に
自分の意見を書き込んで、
これを詔勅として施行できるようにした。

耶律楚材は皇后に苦言を呈した。

「この天下は先帝が定めたもうた天下で
 ございまして、朝廷には基本として
 守るべき憲法典章というものが
 ございます。

 今、陛下がこれを乱そうとしておられます
 が、私は決してご命令には従いません」

これでようやく、詔勅の乱発はなくなった。

また、このようなこともあった。

皇后がこんなことを
朝廷の書記に言い出したのである。

「この者(皇后の寵臣)が願い出たことを、
 彼の言うままに記録しない者がいたら、
 その者の手を断ち切ります」

そこで、耶律楚材は言上した。

「軍や政治に関することについて、先帝は
 ことごとく私にお任せになりました。

 書記に何の関係がありましょう。

 事がもし道理にかなっておりますならば、
 当然、すすんで実行いたしますが、
 もしも行うべきでないものであれば、
 命をかけても避けることはしません。

 まして、手の一本や二本、
 何でもないことです」

先帝以来の勲功ある旧臣であるので、
さすがの皇后も怒りを抑えて
敬いはばかっていた。

耶律楚材は生まれつき英邁(えいまい)で、
衆人からはるかに突出していた。

報告書や請願書、手紙などの文書が
山のように積まれていても、
それらに対する返答は常に適切であった。

顔色を正して朝廷に臨み、相手の権勢に
屈して自説を曲げるということはなかった。

自分の身を捨てて天下のための犠牲に
なろうとして、常に国家の利害、人民の
喜びと悲しみについて意見を述べることに、
言葉も表情も力がこもっていた。

あるとき、耶律楚材が意見を述べようと
すると、太宗は、

「お前はまた、
 人民のために泣こうとするのか」

といった。

楚材は常にいっていた。

「一つの利益あることを始めるのは、
 一つの害があることを除くことに
 及びません。

 一つのことを新たに始めるのは、
 一つのことを減らすことに及びません」


楚材は平生、
むやみに発言したり笑ったりしなかった。

役人や民間人に接する場合でも、
おだやかで丁寧な態度がじんわりと
あふれ出ており、
その徳に感服しない者はいなかった。

太宗亡き後、
皇后が誤った道に進もうとしているときに、
こうした人物が諫言をして、
しっかりと支えたため、
元はその後、発展したのである。

→続く「主人が亡くなると…(2)神宗とその母」
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