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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

右腕が邪魔に(2)      李輔国と張皇后    


唐(とう)王朝で起こった
安史(あんし)の乱の最中、
奪還した長安(ちょうあん)に帰還した
上皇(玄宗(げんそう))を、
太僕卿(たいぼくけい)(朝廷の車馬・牧畜
の長官)の李輔国(りほこく)が
興慶(こうけい)宮から、宮城の奥深くに
ある太極(たいきょく)宮に移した。

上皇はかねがね興慶宮を気に入っており、
逃亡先の蜀(しょく)の地から帰還すると、
早速ここに住んだ。

そして、見晴らしのよい楼上にたびたび姿を
現し、往来を通り過ぎる父老たちが上皇に
拝礼したり万歳を唱えたりする光景を見て
喜び、これに応えて楼の下で酒食を賜った。

また、あるときには将軍らを召して、
楼上で宴会を催すこともあった。

李輔国は心配して、粛(しゅく)宗皇帝に
向かい、

「上皇は興慶宮に住まわれて、日々外部の
 人々と交流しておられます。

 上皇の寵臣である陳玄礼(ちんげんれい)
 や高力士(こうりきし)などが、上皇の側
 にいて、帝(粛宗)に不利を謀って
 おりますぞ」

と、上皇を他へ移すことをしばしば
進言した。

しかし、親思いの粛宗は許さなかった。

そこで李輔国は、粛宗が病気で引きこもって
いる機会をとらえ、みずから五百騎の兵を
率いて無理やりに上皇を太極宮に移した。

そのため、上皇は日々、気分の晴れぬまま、
食事ものどを通らず、次第に病弱に
なっていった。

そして、宝応(ほうおう)元年
(西暦七百六十二年)、
上皇は太極宮で崩じた。

帝位を譲ってから七年目、
七十八歳であった。

このとき、病気で臥せっていた粛宗も、
上皇が死んだと聞いて病がますます
重くなり、とうとう崩御した。

在位七年だった。

粛宗の皇后、張(ちょう)氏は、朝廷内で
主導権を握りたいという思惑があり、
李輔国と利害が一致していた。

粛宗の次の太子についても、二人にとって
都合のよい者を立てたのである。

しかし、上皇が亡くなり、粛宗の病も重く
なってくると、張皇后は今まで手を
結んでいた李輔国が邪魔になってきた。

張皇后は、太子を呼んでいった。

「李輔国は長い間、禁裏(きんり)の兵を
 あずけられてきたことを強みとして、
 ひそかに謀反を企てています。

 誅殺しなければなりません」

しかし、太子は、父である粛宗を震え
驚かせるようなことをして体に障りが
あってはいけないと心配し、
聞き入れなかった。

李輔国はその謀(はかりごと)の情報を
入手した。

粛宗が崩御すると、すぐに張皇后を殺し、
その後に太子を連れてきて即位させた。

代宗(だいそう)皇帝である。

ところが代宗は、即位後、すぐに刺客を
放って李輔国を誅殺した。

李輔国と張皇后は、粛宗の死後も力を
合わせて代宗を支えていけば、
このような結末にはならなかっただろう。

人は己の利益だけを考え始めると、
危険を察知できなくなるようだ。

→続く「右腕が邪魔に(3)趙匡胤、力の奪い方」
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