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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

6.リーダーの条件と承継編

      死の利用方法(2)     恭帝と趙匡胤の即位    


次の宋(そう)王朝も、極めてこれと似た形
で建国されることになる。

後周の二代目皇帝である世(せい)宗は、
名君であったが在位六年で死去した。

崩御の報が伝わったとき、
中国の人民はみな、遠き者も近き者も
涙を流して哀しんだという。

そして三代目に恭(きょう)帝が即位する。

この帝はわずか七歳であった。

この年、朝廷は趙匡胤を帰徳(きとく)の
節度使に任命した。

翌年(西暦九百六十年)の春、鎮(ちん)、
定(てい)の二州に契丹(きったん)が
侵入したとの急報があったので、
朝廷は趙匡胤を将として遣わし、
これを防がせようとした。

出発して陳橋(ちんきょう)駅まで
来たときである。

兵士たちは趙匡胤を推戴して都に帰還し、
天子に立てた。

恭帝は在位半年で、
宋(そう)に国を譲ったのである。

趙匡胤の母は死に際して、
趙匡胤が宋を建国できた理由を、
後周王朝が七歳の幼児を天子として
治めさせたからであると述べている。

「十八史略」には、いかにも兵士たちが主導
して趙匡胤に即位させたように書いている
が、実際には趙匡胤自身に先代の世宗の死を
利用しようという気持ちがあったとみて
間違いないだろう。

→続く「死の利用方法(3)李林甫と安禄山」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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