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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

6.リーダーの条件と承継編

      死の利用方法(3)     李林甫と安禄山    


唐(とう)王朝の玄宗(げんそう)皇帝は、
その治世の後半に佞(ねい)臣や奸(かん)
臣の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を
許し、国力を減衰させてしまった。

佞臣に李林甫(りりんぽ)がいる。

李林甫は、表面は柔和で人当たりが
よかったが、内面は極めて狡猾(こうかつ)
であった。

玄宗の周辺にいる宦官(かんがん)や女官と
結託し、玄宗の暮らしぶりについて熟知して
いたため、玄宗の気に入るような提言をする
ことができ、その結果、
宰相となった人物である。

後に唐を苦しめた安史の乱の首謀者である
安禄山(あんろくさん)も玄宗に取り入るの
がうまかったが、彼は李林甫が苦手だった。

李林甫は安禄山と語るたびごとに相手の
気持ちを推し量り、心の中をずばりと
言い当てるのだ。

さすがの安禄山も、これには驚き、
恐れいって、李林甫と会うたびに真冬でも
汗をかかずにいられなかった。

安禄山は、いつも李林甫のことを
十郎殿(どの)と呼び、
敬意を表していた。

都から任地の范陽(はんよう)に帰っても、
部下が長安からもどってくると、

「十郎殿は私のことを何と言っていたか」

と必ず尋ねた。

誉める言葉を聞けば喜び、

「よくよく注意するよう、
 安大夫に伝えよ」

とだけ言われましたと聞くと、

「ああ、私はもう殺されるだろう」

と嘆いた。

その李林甫が、天宝(てんぽう)十一年
(西暦七百五十二年)に死んだ。

李林甫は、玄宗のお側の者に媚(こび)を
売って自分を誉めさせ、玄宗に対しては
迎合して寵愛をゆるぎないものとした。

一方、臣下から玄宗への情報の流れを絶ち、
玄宗の聡明さが発揮されないよう
覆い隠した。

あるとき、もろもろの法務官に向かい、

「君たちは、宮門での儀式のときに
 並んでいる馬を見たことはないか。

 黙っていればよいが、ひとたび鳴けば、
 すぐさま行列から引きずり出されて
 しまうだろう」

と脅した。

賢人を妬み、能力のある者を憎み、
自分よりも秀でた者を排斥した。

その性格は陰険であった。

人々はこういっていた。

「彼は口では蜜のように甘いことを言うが、
 腹のなかには剣を隠している」

李林甫が夜中、書斎の
偃月堂(えんげつどう)に独り座って
何事かを考えていると、次の日には必ず
人を誅殺(ちゅうさつ)した。

しばしば大疑獄事件を引き起こして人を
罪に落としたので、太子をはじめとして
以下の者皆、彼を恐れていた。

宰相の位にあること十九年、天下の大乱の
種をじっくりと育てたようなものであった
が、玄宗はこれを悟らなかった。

しかし、安禄山は李林甫のたくらみややり方
を恐れていたので、李林甫が生きている限り
は反旗を挙げることができなかった。

安禄山にとって、李林甫の死は待ちに待った
チャンス到来であったのだ。

李林甫に代わって宰相となった
楊国忠(ようこくちゅう)が、

「安禄山はきっと謀反します。

 試しに彼をお召しになってみてください。
 きっと来ないでしょう」

進言してきた。

ところが、安禄山は玄宗の召しに応じて
ただちにやって来たので、玄宗は楊国忠を
信用しなくなり、逆に安禄山への信用を
深めてしまった。

玄宗が油断しきっているなか、安禄山は
謀反の兵を挙げることができたのだ。

知らず知らずのうちに、
毒をもって毒を制するという状態が
できていたのが、
一方の死によって崩れたのである。

李林甫は病で死んだ。

多くの人間を殺し、賢人や才人を登用せず、
ゆがんだ政治を長く行った者は最後に
誅殺されることが多いが、
彼が天寿をまっとうできたのは、
それだけ政権運営が巧みだったと
いうことだろう。

→続く「死の利用方法(4)環境条件の変化と対応」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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