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孫子 ってこんな人

 


「孫子の兵法」は大昔の大ベストセラー!


「孫・呉の書を蔵する者は、家ごとにこれ有り」
(孫子と呉子の書籍をもっている者は、すべての家に1人はいた)

「韓非子(かんぴし)」(戦国時代後期の思想書)にこう書かれています。

軍事に携わる者で「孫子の兵法」を読んでいない者はいないというくらいの大ベストセラーだったのです。

※ちなみに「呉子(ごし)」も兵法家で、「孫子」の100年後くらいに活躍した名将です。

「孫子の兵法」に心酔し、注釈書まで著したのが、あの「三国志」で大活躍した曹操(そうそう)です。

「孫武(「孫子の兵法」の著者)のしるすところは深し」

「孫子の兵法」を深く学んだ曹操は、あと一歩で中国を統一するというところまでいきました。

曹操が注釈書を出してくれたおかげもあって、「孫子の兵法」は今でも読み継がれています。

日本人では、楠木正成、武田信玄、毛利元就、黒田如水、吉田松陰、東郷平八郎、秋山真之、越智直正、孫正義、海外ではナポレオン、ホー・チ・ミン、ビル・ゲイツなどが読者として知られています。



孫武の実績


「孫子の兵法」の著者、孫武については、「史記」にこう書かれています。

「呉(ご)王の闔閭(こうりょ)は孫武が兵法に優れていることを知り、将軍として採用した。

呉が西方の強大な楚(そ)を破って首都に攻め入り、北方の斉(せい)・晋(しん)を威圧してその勇名を諸侯に知らしめたのは、孫子に軍事の力があったからだ 」

この頃、周王朝の力が弱まり、中国全体の実質的な運営を、軍事力の大きい諸侯が担っていました。これを覇者といいます。

呉は、孫武の力で覇者と呼ばれるほどの強国になったのです。


東北大学名誉教授の浅野裕一氏の著書「孫子」によれば、呉国は、

「中原の伝統的な戦争観を根本から揺るがした」

とのこと。

例えば、従来は、

・戦闘に参加できるのは「士」以上の身分の者のみ
・主に御者と戦士が乗り込んだ戦車で戦う
・勝敗を決める要因として大きいのは個人の武勇、技量

というのが伝統的な戦争観でしたが、呉国は、

・身分制度が確立しておらず、庶民も戦士となったので動員兵力数を飛躍的に高めた
・呉が未開の国であったため戦車とは無縁であり、水沢・湖沼地帯であることもあって歩兵中心の軍隊編成となった
・そのため険しい地域にも軍を進めることができ、分進合撃法、各個撃破、奇襲や待ち伏せなどの複雑な戦術が行えるようになった

のです。まさに「孫子の兵法」に書いてある戦略・戦術と符合する改革が行われています。

「史記」の記述からみても、

・呉国の軍制改革の中心に孫武がいた

のは確実です。



エピソード


「史記」にこんなエピソードが書かれています。

孫武が呉王の闔閭(こうりょ)の将軍採用面接を受けたときのこと。

「そなたの書いた兵法書はわしも読んだ。試しに軍隊を指揮して見せてくれぬか?」

「かしこまりました」

「女どもで試せるかな?」

「よろしゅうございます」

宮中の美女180人が集められた。孫武はそれを左右の2隊に分け、王の愛する2人の姫をそれぞれの隊長とし、一同にほこ(刃が股になっているもの)を持たせて命令を下した。

「お前たち、自分の胸と左右の手と背中とを知っているであろう」

「はーい、知ってます!」

「前と命じたら胸を見よ、左と命じたら左手を見よ、右と命じたら右手を見よ、後ろと命じたら背中を見よ」

「はーい、わかりました!」

こうして取り決めが定まると、兵士を統率する印として王から賜ったまさかりを並べて、数回繰り返して丁寧に申し伝えたうえで、はじめて右の合図の太鼓をうった。

「きゃはははー!」

婦人たちは大いに笑うのみであった。孫武は、

「取り決めが徹底せず、申し渡した命令が部隊に行き渡らないのは、将軍である私の罪だ」

といって、また再三取り決めを言い聞かせ、何度も説明してから、左の合図の太鼓をうった。

「きゃはははー!」

婦人たちは大いに笑うのみであった。孫武はいった。

「取り決めが徹底せず、申し渡した命令が部隊に行き渡らないのは将軍の罪だが、取り決めがすでに明らかであるのに、兵が決まりのとおりにしないのは、隊長の罪だ」

そこで、左右の隊長を斬り殺そうとした。

呉王は高台の上から見物していたが、自分の愛している姫を孫武が斬ろうとするのを見てびっくりし、あわてて使者をおくって孫武に伝えさせた。

「わしは、もう、将軍が立派に軍隊を指揮できることが分かった。わしは、この2人の姫がいなければ、食事をしてもうまくないほどなのだ。どうか、殺さないでくれ」

しかし、孫武は、

「私、今や君命をうけて将軍となっております。将軍が軍中にある場合には、君命であってもお受けできないことがあるものです」

そういって、ついに隊長2人を斬ってみせしめにし、その次に王の寵愛を受けている姫を隊長にした。

こうして、また太鼓をうって号令すると、婦人たちは、

しーん

として、左といえば左、右といえば右、前といえば前、後ろといえば後ろ、ひざまずくのも立つのもみな取り決めどおりに整然と行動した。

かくして孫武は伝令を出して王に報告させた。

「部隊はすっかり整いました。王さま、台をおりてお試しください。王さまのお望み通り、この兵たちは水火の中にでも喜んで飛び込みます」

呉王は不機嫌そうにいった。

「将軍は休息をとって宿舎で休んでくだされ。わしは、おりていって試そうとは思わない」

孫子はいった。

「王さまは、ただ、兵法についての言葉や理論がお好きなだけで、兵法を実際に用いることはおできにならないのですね」



このエピソードについては、愛を唱える孫子が軍の訓練だからといって姫を殺すはずがないと、信ぴょう性を疑う意見があります。

しかし、ウソかホントかはどうでもよく、

・軍事とは厳しいもので、命令に従わない者は罰すること
・戦場では将軍に権限があり、王の命令でも従わない場合があること

さらには、

・このような将軍の権限を王が認めない限り、自分が王に仕えることはないという孫子の姿勢

を伝えているものだと解されます。



        兵法経営協会
     Military Strategy Management Association
        
          濱本克哉

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