西漢の孝元(こうげん)皇帝は、太子で
あったときから温和で仁慈の心があり、 儒学を好んだ。
元帝からすれば、西漢中興の祖である
父の孝宣(こうせん)皇帝のやり方は 法治主義の色彩が濃く、法律に通じた役人 ばかり用いて、刑罰によって
人民を統治しているように思えた。
あるとき元帝は、酒宴の席上で父に向かい、 物静かな様子で訴えた。
「陛下は刑罰に頼り過ぎではないでしょう か。もっと儒者を登用されては いかがかと存じます」
宣帝は顔色を変えた。
「わが漢家には、おのずから漢家の制度が ある。
昔から覇道と王道との二つを併用して きたのだ。
何ゆえ、その片方の徳治主義のみを用いて
周代の政治を行わねばならないのか。
それに儒者どもは時勢の変化というものを
考えようともせず、とにかく古いことを ほめ、新しいことを悪くいい、 世人の直面している問題と理想論を
ごっちゃにして語り、混乱に陥れるのだ。
あんな儒者どもに大事な国政を 任せることなどできるものか」
こう言った後、宣帝は嘆息した。
「わが漢家を乱す者は、この太子であろう」
宣帝は若い頃、太子の母である許(きょ)氏 の実家に身を寄せていた。
ところが、その許后は、当時、権力を握って
いた者に毒殺されたという経緯があり、 この太子を廃するのに忍びなかったのだ。
そして、宣帝の没後、
太子が即位して元帝となった。
儒者を丞相に登用したが功績はなく、 朝廷は悪知恵の働く宦官(かんがん)に
支配され、西漢が衰えていくきっかけを 作ってしまった。
「孫子の兵法」九地篇に、
「彼(か)の王覇の兵、 大国を伐(う)てば、 則ちその衆、聚(あつ)まるを得ず」
(あの王者・覇者の軍が大国を撃つ場合 には、大国の軍隊を兵力集中が不可能な 状態に置く)
という言葉が出てくるが、 王覇の兵とは王道と覇道の両方を上手に 使い分ける軍のことである。
まず、徳をもって従わせようとし、 それが難しければ力を用いるのである。
企業経営においても、 この両方のバランスが極めて重要である。
徳や情による統治に過ぎれば社内に緊張感が
なくなり、業績も上がりにくくなる。
かといって、能力や実績、ルールばかりを
重んじ過ぎると、ぎすぎすした雰囲気が 漂って愛社精神も育たず、長期的には うまくいかなくなるのだ。
真のリーダーは、この舵取りを上手に行う。
どちらかに片寄りすぎることは ないのである。
→続く「人は何に従っているのか(1)呂后と人民」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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