唐(とう)の太宗(たいそう) 文武(ぶんぶ)皇帝は、
名を世民(せいみん)といった。
幼い頃、たまたま一人の書生が帝を見て、
「この子の姿は竜や鳳凰のようだ。
また、太陽のような人相をしている。
元服する二十歳くらいになれば、 きっと世を救い、民を安んずるであろう」
と言って、立ち去った。
この話を聞いた父の高祖は 人をやって後を追わせたが、 すでに姿は見えなくなっていた。
そこで、書生が言った「済世安民」の語から 二字をとって「世民」と 名づけたわけである。
この名のとおり、世民は十八歳のとき父に 勧めて義兵を挙げ、天下を平定した。
魏(ぎ)公の李密(りみつ)が唐に降り、 最初は父の高祖に謁見したが、 その顔色はまだ傲慢で、
心服している様子は無かった。
ところが、当時、秦(しん)王であった 世民に謁見すると、その威厳にすっかり
打たれて仰ぎ見ることが出来なかった。
その場を退いた後、感嘆して言った。
「あの方こそ真の英主である」
高祖は世民の功績に報いるため、 特に天策上将(てんさくじょうしょう)と
いう官を設け、位を王公の上に置き、 世民をその官に任じた。
そして、彼のために天策館という専門の
役所を開いて属官を置いた。
世民は役所のなかに学問所を開いて 学問の士を招いた。
杜如晦(とじょかい)、 房玄齢(ぼうげんれい)など十八名を 文学館学士に任命し、三つの組に分け、
交代で館内に宿直させた。
世民は、暇さえあれば天策館に赴いて、 書籍について討論し、
時には夜中すぎになることもあった。
また、ある絵の名手に学士たちの肖像を 描かせ、それぞれ誉める文をつけ、
十八学士と称号した。
士大夫でこの十八学士の仲間入りが できた者を、当時の人々は
登瀛洲(とうえいしゅう)と 呼んで名誉なことと称えた。
このように自分の周囲に賢人を
集めて意見を聞き、よいと思ったものを 採用するという過程を踏むのは、 名君と呼ばれる人物に共通する特徴である。
即位後、太宗(世民)に対して、ある者が、
「君にこびへつらう臣を 退けていただきたい」
と願い出た。
そして言うには、
「どうか陛下には怒ったふりをして お試しください。
あくまでも道理を言い張って屈しない 者が正直な臣、 威光を畏れて仰せにしたがう者が
佞臣(ねいしん)でございます」
と。太宗はこう答えた。
「君たる私が臣下にいつわりを
なしておいて、どうして臣下に正直に せよなどと責めることができようか。
私はあくまでも真心をもって天下を 治めていきたい」
ある者が刑法を重くして盗賊を禁じる
ようにしていただきたいと申し出た。
太宗は、
「豪奢な暮らしをやめ、 むだな費用を減らし、
人民の夫役(ぶやく)を軽くし、 租税を減らすべきである。
そして潔白な役人を選んで用いる。
こうして人民が衣食について余裕を もてるようにしたならば、 自然に誰も盗みなどしなくなるであろう。
どうして刑法を重くする 必要などあろうか」
と言った。
はたして数年の後には、
落し物があっても拾って自分の物にする者は いなくなり、盗賊が後を絶ったので、 行商人も旅人も安心して野宿できる
ようになった。
太宗は、あるときこう言った。
「君主は国があるから成り立つのであり、
国は人民が存在するから 成り立つのである。
にもかかわらず、人民から残酷に
取り立てて君主が贅沢を楽しむのは、 自分の肉を割いて 自分の腹を満たすようなものだ。
腹はふくれるだろうが肝心の身体は 死んでしまう。
君主が富んでも国は亡びるだろう」
このような考え方をしていた 唐の太宗の時代は天下太平で、 後の多くの君主の模範となった。
天才将軍といってよいほどの 輝かしい武功を背景に、 父の後をついで天子となった太宗は、
多くの賢人たちを活用し、 人民が喜ぶ国家を作り上げたのである。
民心を一つにした天子は、
何よりも民を大切に考える人であった。
南宋の張チョク(ちょうちょく) (父は金軍との徹底抗戦を貫いた
張浚〈ちょうしゅん〉)は、
「自分のために考えてするものは利であり、
自分のためを考えないでするものは 義である」
と言った。
この通りであるとすれば、 民心を一つにする者は、必ず、
義を政治の中心に置く
と考えてよいであろう。
→続く「繁栄が続く期間とリーダーの押さえどころ(1)孔子の理想の政治」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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