この少し前、東晋王朝内で権力を 握っていた桓温(かんおん)は、
ひそかに帝位を奪おうという下心を 抱いていた。
ある夜、枕を撫(な)でて嘆息し、
「男子たるもの、百代の末まで美名を 伝えることができないならば、 いっそのこと悪名を後世に
残してやりたい」
と言った。
彼はまず軍事上で功をたて、
還って天子から九錫(きゅうしゃく)の 栄誉を受けようと思ったが、 枋頭(ぼうとう)の地での敗戦で、
その声望もにわかに衰えてしまった。
ある者が、
「殷(いん)の宰相だった伊尹(いいん)や
漢(かん)の大司馬霍光(かくこう)の 先例にならい、帝を廃して大きな権威を 打ち立てなさいませ」
と勧めた。
桓温は意を決して参内(さんだい)し、 皇太后に迫ってついに帝を廃した。
次に即位した簡文(かんぶん)皇帝は、 その九ヵ月後に病気になった。
帝は急に桓温を召して太子の政治を
補佐させた。
それは蜀(しょく)の 諸葛亮(しょかつりょう)孔明(こうめい)
や東晋の王導(おうどう)が幼主を 補佐した故事に倣ったのである。
ところが桓温は、帝の臨終の際に位を
禅(ゆず)ってもらうこと、 または摂政の地位を得ることを請い望んだ ものの望みはかなえられなかった。
時に、謝安と王坦之(おうたんし)が 朝廷にあって政務を補佐していたので、 桓温はこの二名が自分の野望を
阻んだのだろうと疑った。
そのような中、烈宗(れっそう) 孝武皇帝が十歳で即位した。
桓温が兵を率いて来朝したとき、 帝は謝安と王坦之に詔(みことのり)して、 桓温を出迎えさせた。
「この度の来朝で桓温は謝安と王坦之の二名 を殺して、晋の帝位を奪うに違いない」
こんな噂で巷はもちきり。
都下の人々は戦々恐々としていた。
王坦之は非常に恐れたが、 謝安は平然として心も顔色も変えない。
桓温がやがて到着すると、 もろもろの役人たちは道ばたに居並んで 拝礼した。
桓温はものものしく護衛兵を並べて、 朝廷の役人たちを引見した。
王坦之は冷や汗をだらだらと流し、
笏(こつ)(朝廷で儀式用の服を着用する 際、右手に持つ細長い板)を逆さまに持つ
などの失態を演じたが、謝安はゆったりと 席に着き、桓温に向かってこう言った。
「私は、諸侯が道にかなった行いをすれば 四方の隣国がみな守護してくれるので、 警護の兵隊など不要になると
聞いております。
あなたはどうして壁の後ろにまで護衛の 人間を配置する必要がありましょうか」
桓温は笑って、
「私のような不徳な者はおのずと そうしなければならなかったのですよ」
と言った。
こうしてついに命令して護衛を撤去した。
そして、謝安と時を忘れて談笑した。
桓温の腹心の部下が、帳(とばり)の中に 身を横たえて二人の話に耳をすませていた
が、たまたま風が吹いて帳が開いた。
謝安は笑いながら、
「この者は入幕(にゅうばく)の
賓(ひん)というわけですな」
(軍においては将軍の居場所に幕を張り、
その中で機密事項を参謀などと協議した。 ここでは、幕の中に隠れて盗み聞きして いる奉仕ぶりを「幕の中の客人」と
皮肉ったのである)
と言った。
そのうちに桓温は病気になり、
姑孰(こじゅく)の地へ帰ったが、 病状は悪化。
桓温はそれとなく九錫(きゅうしゃく)
(九種類の最高の恩賞)を求めたが、 謝安と王坦之はわざと決裁を下すのを 引き延ばしていた。
間もなく桓温は死んだ。
桓温は最後の最後まで帝位を求め続けたが、 あと一歩のところまでいきながら得ること
はできなかった。
仮に帝位を得たとしても、死後、謝安らに 奪い返されたのではないだろうか。
つまり、帝位につくだけの人徳も能力も 無かったのだ。
地位というものはみずからが欲して得る
もののではなく、他人が認めるもの なのである。
企業においても出世競争があり、 昇進を求める者は多い。
確かに、そうした競争をするからこそ、 人材の能力が向上するという面はある。
しかし、「部長」という肩書きを 得たからと言って、仕事がそのレベルに 達していなかったら、心の中では誰も
その人を「部長」と認めない。
もちろん、 「社長」も「取締役」も同じである。
求めるのはよいが、 その地位が他人から認められるように 行動しなければならない。
→続く「民心を一つにまとめるには(1)周公旦と太公望」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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