春秋時代、 趙(ちょう)の簡子(かんし)は、
晋陽(しんよう)の地を一人の臣下に 治めさせることにした。
その臣下は赴任するにあたって、
「晋陽を治めるには繭(まゆ)から糸を 取り出すように人民から絶えず租税を 取り立てますか、それとも、
藩屏(まがき)を築いて家を守るように 人心を十分に把握する方法をとりますか」
と伺いを立てた。簡子は、
「後者にせよ」
と答えた。
赴任した臣下は晋陽の戸籍面から戸数を
実際の数より減らして、税金を軽くした。
簡子は息子に言った。
「将来、もしもわが晋の国に国難が
あったら、必ず晋陽を根拠地とせよ」
やがて簡子が死に、その息子が即位した。
襄(じょう)子である。
その頃、晋の家老の一人で勢力を 強めつつあった知伯(ちはく)が、 韓(かん)氏、魏(ぎ)氏に土地の割譲を
迫った。
韓氏と魏氏は知伯の勢力を恐れて 言いなりに土地を与えた。
そして知伯は趙にも迫った。
しかし、襄子はこれを与えなかった。
そこで知伯は韓と魏の兵を率いて趙を 攻めた。
襄子は父の言葉に従い、 居城を出て晋陽に逃れた。
知伯・韓・魏の三家の兵が晋陽を 囲んで水攻めにした。
晋陽は水浸しになり、 城壁はわずかに六尺出ているだけで、 沈んだ竈(かまど)には蛙が生まれる
ようなありさまだった。
しかし、人民からは誰一人、 裏切る者が出なかった。
やがて襄子は、ひそかに韓と約束して 共に知伯を破り、知氏を滅ぼして 領地を分け合った。
よほど知伯が憎かったのであろう。
襄子は知伯の頭蓋骨に漆(うるし)を 塗って杯にしたという。
税金を高く取る方が支配者側は潤う。
しかし、人民は怨みを募らせ、 他から新しい支配者がやってきたら
そちらを支持するので、 政権を維持することが困難になる。
財を自分の方に集めるのでなく、
税金を安くすることで人民に分配し、 仲間につけ、 危険を乗り越えたのである。
これまた、金を人に使って
成功した事例である。
→続く「富の本当の活かし方(4)文帝・景帝・武帝」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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