王導とは対象的に、ごまかしがまったく
きかないほどの統制を行って、しかも民を よく治めた陶侃(とうかん)がいる。
王導と同時代、陶侃は最終的に八つの州に またがる軍の司令官にまで上り詰めた。
彼は幼いときに父親を失って孤児となり、 家が貧しかった。
あるとき、同郷の男が孝廉(こうれん)の士
(官吏の登用で最も重視された徳目。 親孝行で、かつ清廉な者)として推挙 され、都の洛陽(らくよう)に上る途中、
陶侃の家に立ち寄った。
陶侃の母親は、自分の髪の毛を売って金を 作り、酒食を整えたので、この男は感服し、
陶侃を各方面に推薦した。
そのため陶侃は世に名を知られるように なったのである。
最初、陶侃は荊(けい)州の武将となって、 義陽(ぎよう)の地の異民族の乱を平定し、
ついで江東で謀反(むほん)した大将の軍を 破り、湘(しょう)州を中心に猛威を奮った
反乱軍を打ち破って、江夏(こうか)郡の 知事から荊州の長官へと昇進したが、 中枢の権力者ににらまれて広(こう)州の
長官に左遷されてしまった。
陶侃は広州にいた頃、毎朝、大瓦百枚を 屋外に運び出し、毎晩、部屋の内に
運び入れた。
人がその理由を問うと、陶侃はこう答えた。
「私はいつかまた、晋(しん)王朝の
中原(ちゅうげん)回復に力を尽くそう と思っている。
そのときに備え、
労苦に耐える稽古をしているのだ」
この陶侃がまた荊州を治めることになった とき、荊州の民は皆、喜んだ。
彼の性質は聡明で賢く、 しかも仕事に熱心だった。
いつも、
「禹(う)は聖人でありながら、 寸陰(すんいん)を惜しんで精励した。
まして凡人は分陰(ふんいん)
(分は寸の十分の一)を 惜しまなければならない」
と言っては努力を重ねていた。
諸々の下役人の持っている酒器類や賭博に 使う道具を全部川に投げ捨てて、
「賭博など豚飼いがする遊びだ」
と戒めた。
また、あるとき、船を造ったが、
竹の切れ端やおが屑(くず)を捨てずに 帳面につけて保管させた。
その後、正月元旦の群臣の参賀の際、
雪は晴れたが地がぬかっていたので、 さきのおが屑を地面に撒(ま)かせた。
後に別の将が蜀(しょく)征伐に
おもむいた際には、陶侃が保管して おいた竹の切れ端で釘を作り、 船を修繕した。
陶侃は万事こういった調子で、 統治方法は綿密を極めていた。
八州の軍の司令官として、
威勢も名望も盛んであった陶侃。
一説によれば、陶侃には謀反の気持ちも あったという。
彼は、ある夜、こんな夢を見たそうだ。
「八つの翼が生えて天門に上り、 天の最も高い九重の手前の八重まで突破
したところで、左の翼が折れて墜落した」
権力は思う存分振るうことができたが、
この翼を折った夢を思い出しては みずからを抑制したという。
陶侃は軍に在ること四十一年、
明敏で決断力に富んでおり、 誰も陶侃をあざむくことはできなかった。
ごまかしがきかないのだ。
彼が治めた南陵(なんりょう)から 白帝(はくてい)城に至るまでの 数千里の間は、落し物を拾って
自分のものにするような者は 一人もいなかったという。
王導は主に貴族や豪族を対象として柔軟に
治め、陶侃は軍や民を対象に規律正しく 統治した。
規律と柔軟性の匙加減は、時と所、
対象等によっても変わってくるし、 統治者の性格にもよるので、 一概にどの程度がよいとはいい難い。
企業も、創業当時は社内規定も無いほど 緩(ゆる)やかでありながら、 一所懸命に仕事をする者が多く、
さぼる者は少ない。
そして発展したら、がちがちにルールを 決めてもさぼる者が増え、
魂を込めた仕事のできる者が 減ってしまうのが一般的である。
このような発展段階の違いにより、
規律重視か、それとも柔軟に組織を 運営するかは変わってくる。
また、社長や幹部の個性にもよるのである。
どうするかは、 そのときの状況に応じて判断すべきである。
→続く「富の本当の活かし方(1)疏廣と疏受」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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