では、秦(しん)の公孫鞅(こうそんおう) はどうだったろうか。
公孫鞅を重く用いた孝(こう)公が 亡くなり、恵文(けいぶん)王(秦として
初めて王号を唱えた人物)が即位した。
恵文王は太子であった頃に法を犯し、
守(もり)役の公子虔(けん)や教育係が 処罰された過去がある人物である。
公子虔の一派が、
「公孫鞅は謀反(むほん)を たくらんでいます」
と、讒言(ざんげん)した。
公孫鞅は逃げ出し、途中、宿屋に泊まろうと したが、宿屋の主人はこう言って断った。
「公孫鞅さまの決めた法律では、旅券を 持たぬ者を泊めると罪に問われます」
公孫鞅は嘆いた。
「法を作ることの弊害が、 ついに私におよんだか」
去って魏(ぎ)の国に行ったが、
受け入れてはくれない。
魏はかえって秦に送り返した。
秦は、公孫鞅を車裂きの極刑にして
見せしめとした。
公孫鞅は、法令の適用の仕方が極めて 過酷であった。
たとえば、田地の申告のとき、 実際よりも面積を狭く申し出て租税を 軽くしようとわずかにごまかした者も 罰した。
肥料になる灰を道に捨てる者も罰した。
かつて渭(い)水という河のほとりで
裁判をし、罪人を罰したところ、 その血で渭水が真っ赤になったといわれる。
これらを見ても分かるように、
公孫鞅は「斬る」ことはたびたびあっても、 それを「泣いて」行うことは無かった。
つまり、人としての情にかける部分が あったのだ。
恵文王や公子虔に怨まれ、
最後には車裂きの刑に処せられたのは、 あまりにも生真面目に法を 運用したからであろう。
→続く「泣いて馬謖を斬る(3)武帝のあやまち」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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