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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
4.戦争と殺戮編
敵を生かした場合、 殺した場合に起きること…(4)趙匡胤と名将曹彬
宋の太祖皇帝、 趙匡胤(ちょうきょういん)は、即位後、
着々と全国統一を進めていった。
南唐(なんとう)国の攻略の際には、 総司令官に名将の曹彬(そうひん)を
起用した。
初め、帝はしばしば使者を送り、 南唐の国王に朝貢を促したが、 南唐王は受け入れなかった。
そこで曹彬らの武将に南唐の討伐を命じた。
その際、戒めて言うには、
「絶対に現地の住民に対して乱暴、 略奪を加えてはならない。
できるだけ威信を示して人民の方から
なつき従うように仕向けるのだ。
急いで撃ってはならぬ」
帝は、箱に入った剣を曹彬に授けて言った。
「副将以下、命に従わない者あらば、斬れ」
これを聞いて、副将をはじめ、
部下の将兵は一同、震えおののいた。
かつて帝は、後蜀(こうしょく)を 平定したが、そのときの総司令官が
あまりにも多くの人を殺したことを いつも残念に思っていたのである。
曹彬は思いやりの深い性格なので、
彼を起用したのだ。
翌年、曹彬は南唐の都である 金陵(きんりょう)を包囲し、 激しく攻めたてた。
南唐王は、使者に貢物を持って宋に 入朝させ、攻撃の手を緩めてもらいたいと 要請した。
使者は、
「わが国主が小国をもって大国の宋朝に 仕えることは、子が父に仕えるように 従順でした」
と、何度も言葉を重ねて南唐王のために 弁解した。
しかし、帝は、
「なんじは父子というが、
父と子が別々の家に分かれていても よいものであろうか」
と応えた。
使者は返事に窮して江南に帰っていったが、 また朝貢使節としてやってきて、
「江南の人民には何の罪もございません」
と、荒々しい語気で主張したので、 帝は怒り、剣の柄に手をかけながら、
「つべこべ言うでない。 江南の人びとに何の罪があろうか。
ただ天下は一家なのだ。
私の寝台の側(かたわ)らで 他人がいびきをかいて寝ているのを どうして許しておけよう」
使者は縮み上がって退散した。
南唐の金陵は、宋軍の囲みを受けること 春から冬におよび、
一段と形勢が悪く苦しくなってきた。
曹彬は必ずこれを降伏させようと決意を
固め、しきりに使者を南唐王に送って、
「某日には必ず落城するから、 早々にその準備をしておくべし」
と申し送った。
ある日、曹彬はにわかに病と称して 引きこもった。
諸将は驚き、見舞いにやってきた。
彼らを前にして曹彬はこう言った。
「この病気は薬では治らない。
諸君が共に誓って、 城を攻略するに当たり、 罪のない者は一人も殺さないといって
くれるならば、すぐに治るであろう」
諸将はこれを承諾して、 香をたいて誓約した。
翌日、金陵は落城し、 南唐王は城を出て降伏した。
南唐は亡んだ。
勝利の知らせが帝に届いた。
帝は泣いて、
「天下に群雄が割拠して、 人民はその禍を受けてきた。
このたびの城攻めにおいても、 きっと刃(やいば)にかかって 思わぬ死を遂げた者もあろう。
まことに気の毒である」
と言った。
やがて曹彬が凱旋したが、
彼の舟にはただ書籍と衣服と寝具が あるだけであった。
都に到着すると、
曹彬は宮中の小門から自分の姓名、 官職をしるした名刺を差し出して 帰国の報告をした。
「勅命を奉じて江南に至り、 事を処理してただ今帰りました」
このように曹彬は、
大功を誇らない人物であった。
国は人民があって はじめて成り立つものである。
敵国を奪い取った場合でも、 その敵国の人民に親しまれなければ、 治めることは難しくなってしまう。
罪の無い者、歯向かわない者を 殺さないというだけでなく、 乱暴や略奪も一切加えないように
してこそ、ようやく人民は 新しい統治者に従うのである。
企業においても、
やむをえず競合他社を合併したり、 他社の本拠地に踏み込んで営業活動を したり、他社の顧客を奪ったり
することがある。
そういう場合にただ、 敵を敵として扱うばかりでは、 感情的なしこりが残ってしまう。
結果的に敵を生かすことになっても 殺すことになっても、
あの会社には負けても仕方が無い あの会社は実に立派な会社である
と思わせるような振る舞いや勝負の 仕方を心掛けることが、 怨みを少なくし、 自社をさらなる発展へと
向かわせることになる。
諸葛亮孔明や趙匡胤、曹彬の姿勢が、 他社と競争する際に、
場合によっては顧客への対応にも 参考になろう。
→続く 5.富と繁栄編「隆盛を極めていくときの条件(1)公孫鞅の改革」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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