戦争はあくまでも
政治目的を達成するための手段
である。
もしも敵が最初から降参してくれば
戦う必要はない。
お互いに勝とうとするから戦いになるのだ。
もしも戦争をして勝ったならば、
その後は当初の政治目的を念頭に置いた 行動をすべきである。
これができるかできないかが国の安定を
大きく左右する。
しっかりできた者は民を喜ばし、 国を富ませるが、 できない者は新たな対立の芽を作り、
滅びの道を歩むのである。
西漢の高祖劉邦(りゅうほう)は、 秦(しん)の軍を破って関中(かんちゅう)
に進入し、秦王を降伏させた後、 秦の都咸陽(かんよう)に入城したものの 兵をハ上(はじょう)の地まで退いて、
そこに陣を布(し)いた。
そして関中の諸県の長老や豪傑を招集して、 次のように宣言した。
「あなたがたは、 秦の厳しい法律に長く苦しんできた。
私は諸侯と、先に関中に入った者が
関中の王になるという約束をした。
よって、一番乗りした私こそが関中の王 であるべきだ。
ついてはあなたがたに約束しよう。
法は三章のみである。
人を殺した者は死罪。
人を傷つけた者は罰する。 盗んだ者は罰する。
その他、 従来の秦の過酷な法律は除き去る」
厳しい刑罰に苦しんできた秦の民は、 これを聞いて大いに喜んだ。
劉邦は最初からこのようにするつもり
だったかというと、実は違ったのである。
「史記」によれば、咸陽城に入った後、
宮殿、帷帳(とばり)、犬馬、宝物や、 数千人もの後宮の婦女にすっかり心を 奪われた劉邦は、ここにとどまって
贅沢三昧をしようとしたのである。
それを家臣の張良(ちょうりょう)などが、 夏王朝の暴君、桀(けつ)のような
振る舞いをしてはならないと諫めたため、 仕方なくハ上に退いて、 先の宣言を発したのであった。
これに対して、劉邦が去った後に咸陽に 入った項羽はどうしたか。
大虐殺を行ったのである。
すでに降伏していた秦王を殺し、 宮殿に火をかけた。
その火は三ヵ月も燃え続けたという。
さらに項羽は秦の始皇帝の墓を掘り返し、 宝物、財貨、美女を奪い尽くし、 東へと引き揚げた。
当然ながら、秦の民は大いに失望した。
ある者が項羽にこう進言している。
「関中は山によって隔てられ、大河が流れ、 四方が塞がった要害の地であり、 しかも地味もよく肥えております。
都を定めて天下に号令するのに よい地です」
ところが項羽は、
秦の宮殿が焼け跡になっているのを見、 かつ東の故郷へ帰りたくなっていたので、
「富貴な身分になって故郷に帰らないのは、 錦の着物を着ながら夜に歩くような ものだ」
と言った。
その男はこうつぶやいたという。
「世間では、楚(そ)の人間(項羽)は
猿が冠をかぶっているようだと言って いるが、いかにもその通りだなぁ」
これを聞いた項羽は
男を釜ゆでの刑に処した。
項羽には、中国全土を治めるなかで 咸陽をどう位置付けるかという視点も
欠けていたし、進言してくれる者の 意見に耳を傾けるという度量の大きさも 無かった。
ただ、育ての親である叔父の項梁を 秦軍に殺された怨みと自分の欲望の 命ずるままに咸陽を焼き、
財宝や美女を奪ったのである。
この後、劉邦も同じような失敗を 犯している。
項羽との対決姿勢をはっきりと打ち出した 劉邦は、項羽が斉(せい)の討伐に出かけて
留守となっていた楚(そ)を、五諸侯の 兵五十六万人を率いて襲ったときである。
楚の都の彭(ほう)城を陥れた際、 宝物、財貨、美人を奪って、 連日祝宴を開き、 勝利に酔いしれたのである。
これを聞いた項羽は、 みずから精兵三万人を率いて引き返し、 劉邦の漢軍を攻撃して大勝利をおさめた。
漢軍の死者は二十万人にのぼり、 その死体でスイ水という川の流れが 止まるほどであったという。
このときも劉邦の側近は諫言したものと 思われるが、劉邦が聞かなかったのでは ないだろうか。
いずれにせよ、
勝った後に欲望を抑えられない者は、 その後に必ず敗北が待っている
のである。
→続く「戦に勝った後の行動(2)外患収まれば内憂が」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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