戦争で百戦百勝するというのは 神業(かみわざ)といえる。
弱い敵とばかり当たれればよいが、 なかなかそうはいかない。
敵の方から攻め込んでくる場合もあるが、
それはこちらが弱いからである。
強者と当たる際の対策として、 「孫子の兵法」(謀攻篇)では、
「少なければ則(すなわ)ち能(よ)く 之(これ)を逃れ、
若(し)かざれば、則ち能く之を避く」
(数的に劣勢であれば、攻撃の機会を 伺いつつ退却せよ。
あらゆる点において劣勢であるならば、
最初から戦わずに上手に敵を避けよ)
と教えている。
そのようにして命を保ち、
捲土重来(けんどちょうらい)を期す のである。
戦国時代、燕(えん)の国では、
易(い)王のとき、宰相に仕事を任せ、 王は隠居して政務をとらなくなった ばかりか、とうとう宰相の臣下にまで
なり下がった。
このため、国が大いに乱れた。
これは斉(せい)の陰謀にまんまと
易王がかかったことによる。
賢明な王は臣下に政治を任せるものだ などと、巧妙に吹き込まれたのだ。
斉がこの機に乗じて燕を伐(う)つと、 燕はたちまち敗れ、宰相は塩漬けにされ、 易王は殺された。
その後、燕の人々は太子を立てて君主と した。これを昭(しょう)王という。
昭王は戦死者を弔(とむら)い、 生存者を慰問した。
また、丁寧な言葉でかつ俸禄を厚くして
賢人を呼び寄せた。
あるとき、知者の郭隗(かくかい)に 尋ねて言うには、
「斉は、わが国が乱れたのにつけこんで 攻め込み、燕を破った。
私は燕が極めて小国であり、斉に報復
できないことを十分に承知している。
ついては、ぜひとも賢人を得て、 この国を共に発展させ、
いずれ斉を伐(う)って先王の恥を すすぎたいと願っている。
先生、どうか適当な人物を見立てて
ほしい。私はその人物を師として 仕えたいのだ」
郭隗はこう答えた。
「昔、ある国の君主が千金を投じて お側の者に一日千里を走る駿馬を 探させました。
ところが、その男は死んだ馬の骨を 五百金で買って帰りました。
君主は非常に怒りましたが、その男は
『死んだ馬さえ五百金も出して 買ったのです。
ましてや生きている馬には
どれほど出すかわからないと 評判になるでしょう。
今に千里の馬がやってきます』
と言いました。
一年もたたないうちに、千里の馬が 三頭もやってきたということです。
あなたも本気で人材を得たいと思し召す ならば、 まずこの郭隗から始めてください。
そうすれば、私よりもすぐれた人物が 千里の道を遠しとせずに やって参りましょう」
そこで昭王は郭隗のために邸宅を築き、 師事したのである。
この話が広まると、天下の賢人が先を
争って燕の国に集まってきた。
そのひとりの楽毅(がっき)は、 魏(ぎ)からやってきて亜卿(あけい)
(卿に次ぐ身分、準家老職)に取り立て られ、政治を任された。
やがて楽毅は将軍となって斉を攻め、
都の臨(りん)シまで攻め入った。
斉王は都を逃げ出した。
楽毅は勝ちに乗じ、六ヵ月の間に斉の
七十余城を攻め落とした。
昭王が怨みを晴らしたそのとき、 即位してから実に約三十年の月日が
経っていた。
即位した当時、昭王は斉に服属するという 条件を飲んで王となった。
斉との戦いを避け、いつの日か報復すること を夢見ながら、長期戦略で着々と賢人を 集め、国力を高めたのである。
そうして生きている間に斉への報復を 果たしたのだ。
→続く「生き残る者の思考と行動学(2)魯仲連の助言」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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