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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

4.戦争と殺戮編

命をかけて戦うべきものと       そうでないものの判断(1)      

 光武帝の「柔よく剛に勝つ」


人間にとって最も大切な命。

命をかける決断は、検討に検討を重ねた
うえで下されねばならない。

戦争の仕方の書である「孫子の兵法」の
冒頭に、

「兵は国の大事(だいじ)なり。
 死生(しせい)の地、
 存亡(そんぼう)の道、
 察せざる可(べ)からざるなり」

(戦争は国の一大事である。なぜならば、
 国民の生死と国の存亡の分かれ目となる
 からだ。よって熟慮のうえで方針を
 決定しなければならない)

とある。戦争のプロで、呉(ご)の国を
連戦連勝に導いた孫子が、人命を重視し、
戦争という手段を安易に用いることを強く
戒めている点には考えさせられるものが
ある。

東漢(とうかん)の
世祖(せいそ)光武(こうぶ)皇帝は、
天下を平定したのち、
故郷の南陽(なんよう)の地に
行幸(ぎょうこう)した。

酒宴の席で帝の叔母たちは口々に
こう言い合った。

「この子は平生、人に愛想の一つも言わず、
 ただ素直でおとなしいのが取り柄だった
 のに、よくまあ天子になったものだ」

これに対して光武帝は笑ってこう言った。

「私は、天下を治めるにあたっても、
 柔、つまりおとなしいやり方で
 いこうと思います」

光武帝は、長年、戦場にあったため、
軍事を厭(いと)うようになっていた。

蜀(しょく)の地を平定した後は、
よほどの緊急時でない限り、
決して軍隊のことを口にすることは
無かった。

北匈奴(きょうど)が旱魃(かんばつ)や
蝗(いなご)の害で国力が衰えたときの
こと。

漢の二人の将軍がこの機会に匈奴を
攻め滅ぼしたいと上書してきた。

両名とも、剣を鳴らし、手を打って勇み
立ち、心はすでに匈奴の都城のある
北へ飛んでいた。

だが光武帝は返書に、

「柔よく剛に勝ち、弱よく強に勝つ」

と書いて、許可しなかった。

それ以後、将軍たちは誰も戦争のことを
口にしなくなったという。

光武帝は、玉門関(ぎょくもんかん)を
閉じて西域との交渉を絶った。

創業の際の功臣の安全を考えて、
二度と軍事に従わせず、皆、
大名に取り立てて大邸宅に住まわせた。

役人のすべきことはすべて
三公(三種の宰相職。大尉(たいい)・
司徒(しと)・司空(しくう))に
責任を持たせ、功臣には役人の仕事を
任せることは無かったので、諸将は
いずれも名誉をまっとうして一生を終えた。

このように、
天子がおかしな欲さえ抱かなければ、
無駄な戦いに命を散らすこともないので
ある。

→続く「命をかけて戦うべきものとそうでないものの判断(2)孔明の決断」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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