実力のある功臣を粛清するばかりが
心に安らぎを与えてくれるものではない。
覇権を握った後、 それを維持するためには多方面に手を打ち、
さまざまな不安の種を取り除く必要がある。
例えば、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)
は、中国全土を治めるのに郡県制を用いた。
周(しゅう)が各地に諸侯を封(ほう)じ、
その多くを同族の者にしたものの、結局、 仇敵のように争い合うようになったのを 繰り返さないため、各地に王ではなく
行政長官などを置いたわけである。
自分が支配していることを周知徹底する ために始皇帝は各地を訪問した。
また、北方の胡(えびす)(異民族)の 侵入を防ぐために万里の長城を築き、 権力を誇示するため、
後に阿房宮(あぼうきゅう)と呼ばれた 壮大な新宮殿も建築した。
法家(法による厳格な政治を推進し、
君主の権力を強め、富国強兵を図る思想) の考え方を徹底するために儒家(孔子が 始めた儒教にもとづき、仁義礼智信などの
実践により国を治めようとする思想)の 書をすべて焼き捨て、 多くの儒者を穴埋めにした。
始皇帝自身の性格は生まれつき剛情で、 政事について大小に関わらず、 人に任せることなく自分で決裁した。
次第に書類が増え、ついにははかりを使い、 仕事量を重さで決めるようになった。
昼はどれだけ、夜はどれだけと 決まっており、眠る暇もなかった。
自分の権力を保つためにそんなに
頑張ったのは、それだけおびえていたと いうことであろう。
信頼できる重臣がいなかった
ということでもある。
こうした一連の施策や行動は、 すべて自分と子孫の天下を維持するためでは
あったが、多くの人の血と涙を流させ、 国の中核となる人物を育てることもできず、
かえって秦の寿命を短命に終わらせることに つながった。
劉邦の場合も、死後、実権を握ったのは
呂后であり、もう少し呂后が長生きして いれば、漢も短命に終わった可能性がある。
覇権を握った者が次々と繰り出す 延命政策は、
自分の都合ばかりを重んじたもの
が多く、民を苦しめ、 敵を作る行為でもあるのだ。
企業経営者もこれと同じように動けば、
ただでさえ昨今の環境激変で企業の存続が 困難になっているなか、みずから寿命を 縮めてしまいかねないことを
肝に銘じるべきである。
→続く「すり寄ってくる者とその方法(1)侫臣か忠臣か」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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