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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

権力者に備わっている資質(1)王莽の野望


権力者と呼ばれる人間にはさまざまなタイプ
があるが、共通している資質がある。

何よりも自分がかわいいと思っている点だ。

つまり、自己中心的ということである。

わずかでも自分の野望達成に障害となる
存在、自分を脅かす存在は徹底的に
排除する。

必要ならば、親も子も殺す。

ましてや人民などいくら死んでも
かまわない。

自分さえよければそれでよいのである。

他人に憐れみをかけるような素振りをする
こともあるが、それは演技である。

完全に自己中心主義なのだ。

現代の法治国家では、権力者でも殺人など
を犯すと逮捕されて一巻の終わりと
なるので、そこは巧妙に外敵を取り除く
手を打つが、古代から中世にかけての
中国ではやり放題にやっている権力者が
少なくなかった。

西漢王朝を簒奪(さんだつ)し、
新王朝を立てた王莽(おうもう)の例を
見てみよう。

西漢の孝元(こうげん)皇帝の正室、
王政君(おうせいくん)には兄弟が
八人いた。

王莽は、その中の一人、
王曼(おうまん)の子である。

この兄弟は元帝の外戚という地位にあって、
次々と列侯に封(ほう)ぜられたのだが、
王曼は若くして死んだため、王莽の
一家だけが諸侯に取り立てられなかった。

王莽は幼くして孤児となったのである。

多くの従兄弟(いとこ)は皆、
それぞれ将軍に取り立てられた。

いずれも列侯の子だったので、
時運に乗じておごり高ぶり、
壮麗な馬車に乗ったり、
歌舞や女色にふけったりと遊んでばかり。

互いに自慢し合っていた。

それらを横目に王莽は身をかがめて、
慎み深く振る舞い、努力してひたすら
徳行に努めて学問に打ち込んだ。

服装は一介の書生のように質素なものを
身につけていた。

しかも外では天下の英傑と付き合い、
内にあっては伯父たちに仕えて、
常に礼儀正しかった。

やがて王莽は新都(しんと)侯に
封(ほう)ぜられた。

爵位が高くなるにつれ、
彼はますます謙虚にふるまった。

そしてついに伯父たちをしのぎ、
国政の実権を握ったのである。

孝哀(こうあい)皇帝が亡くなると、
王莽は孝平(こうへい)皇帝を迎えて
天子に立て、その五年後、
平帝を毒殺して天子の代理となった。

その三年後、ついに漢の帝位を奪って、
国号を新と改めたのである。

おそらく王莽は、
劣等感にさいなまれながら
若年期を過ごしたのであろう。

従兄弟がきらびやかな暮らしを
見せ付けるなか、王莽は耐えに耐えた。

まじめで謙虚、礼儀正しく、
身なりは質素と、どこから見ても非の
打ち所のない振る舞いを見せていたが、
それらはすべて野望実現のための
計算ずくの行動であった。

学んだ学問も、自らの欲望実現のための
道具として使ったのである。

また、即位の前後には自己本位で
好きなように世の中を変えようとした。

帝位につく前、王莽は官命や十二州の
境界を全面的に改定した。

やめたり、新設したり、名称変更したり、
新しい貨幣を作ったりで天下は騒然と
なった。

やがて帝位を奪うと、漢王朝の姓である
「劉(りゅう)」は卯・金・刀の三字から
成り立っているというので、
剛卯(ごうぼう)という魔除けの装身具や
金刀(きんとう)という貨幣の使用を
禁じて、使うことができないようにした。

また、錯刀(さくとう)、
契刀(けいとう)、五銖銭(ごしゅせん)
などの貨幣も廃止した。

天下の耕地は王田(おうでん)と改称し、
売買することが出来ないようにした。

家族の男子の数が八人に足らない家で、
所有している田地が一井(いっせい)
(約十六ヘクタール)を超えている者は、
その余分の田地を分けて親族や郷里の
人びとに与えさせた。

それゆえ今まで田地のなかった者も
田地を所有するようになった。

五均(ごきん)・司市(しし)
・銭府(せんふ)という三つの役所を
設け、人民がそれぞれ家業で生産した
品物によって年貢を納めさせた。

貨幣制度を改め、
金・銀・亀甲(きっこう)・貝・銭・布
の六つを材料として二十八種類もの
複雑な体系とした。

そのため、人民は大混乱に陥り、
実際には流通しなかった。

そこで、別に大銭と小銭とを発行した
ものの、あまりに貨幣制度の変化が
激しく信用する者がなかった。

そのような状況下で貨幣を偽造する者、
廃止された五銖銭を使う者などは
罪に問われた。

こうして経済界が混乱し、
農夫も商人も職業を失い、
食物も貨幣も流通しなくなり、
人民は街路で泣き叫んだ。

その後、また貨幣制度が改定され、
貨布(かふ)、貨銭(かせん)の
二種類に改められたが、
こうして貨幣を改めるたびに人民はまた
貨幣を偽造するなどして罪に問われた。

囚人車に収容され、首を鎖でつながれ、
次々と長安に送られた。

十万単位で数えられるほどとなり、
そのうち死罪となるものが十人に六、
七人にものぼった。

王莽は周王朝の政治のやり方を理想と
したといわれるが、あまりに現実を無視し、
ことを性急に行いすぎた。

民の苦しみなど王莽にはどうでもよく、
自分がやりたいことをやれれば
よかったのであろう。

こうして天下は騒々しく、漢の昔を
なつかしむ声が長く続くようになったが、
さらに年々、旱魃(かんばつ)や
蝗(いなご)の害があって食糧が不足し、
人民は共食いするほどになり、
あちこちで暴動が発生した。

王莽は五色の薬石と銅とで、
北斗七星をかたどった威斗(いと)という
祭器をつくらせた。

この祭器の力により各地で起こった反乱を
鎮圧できると信じていたのだ。

宮廷を出入りする度に、
人にこれを背負わせ、随行させた。

漢の兵が王莽の宮中に攻め込んできても、
まだ威斗の柄(え)に寄り添って座り、
こう言ったという。

「天が私に万民を治める徳を
 授けられたのだ。
 漢の兵が私をどうすることが
 できるものか」

しかし、王莽は王宮の高台で首を斬られて
しまった。

兵士たちは王莽の体を切り刻んでばらばらに
した。

祭器の威力で敵兵を鎮圧できるなどと
考えるとは、妄想もいいところである。

そこには巧みにことを運んで国政の実権を
握った頃の計算高さは見られない。

即位する前には民衆の支持を得るために、
罪を犯した長男と次男を獄へ送り、
共に自殺させたこともあった王莽。

そのようなことを為すなかで、徐々に
精神に異常をきたしたのかもしれない。

王莽の新王朝は一代限り、
わずか十五年で亡んでしまった。

→続く権力者に備わっている資質(2)則天武后は最高レベル」
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