西漢の考宣(こうせん)皇帝は、
高祖劉邦(りゅうほう)から七代目の皇帝 であるが、その生い立ちは異色であった。
先々代の考武(こうぶ)皇帝=武帝が 太子拠(きょ)とその一族を無実の罪で 誅殺(ちゅうさつ)した事件が発生した頃、
拠は史(し)氏の娘に生ませた息子、 史進(ししん)がおり、この進にも息子の 病已(へいい)(後の宣帝)がいた。
史進と病已はともに牢獄につながれた。
武帝は獄中の者も皆殺しにしようとして
使者を派遣したが、監獄の長であった 丙吉(へいきつ)という者は、
「たとえ普通人でも無実の者を殺すことは
できない。まして皇帝の曾孫を殺すことが できようか」
といって拒んだ。
武帝は、
「これも天命である」
として、殺さなかった。
その後、病已(後の宣帝)は成長すると、
才気煥発で学問を好み、仁義を重んじて 弱きを助け、強きをくじき、村里の役人の 不正や政治の良し悪しをよく知るように
なった。
宣帝は民間で育ったため、 人民の苦しみに通じていたのである。
病已は即位すると、驕慢なふるまいの 目立っていた霍(かく)氏一族をじわじわと 追い詰め、誅殺し、皇帝による親政を
実現した。
細心の注意をはらい、政事の要点を押さえ、 規則や諸制度を整えた。
州郡の監察官、郡の長官、諸王侯の 家老などの地方官を任命する際には、 宣帝は必ず自ら面接して話を聞いた。
そうしていつもこう言った。
「人民がその村で安心して生活し、 ため息をついたり、
怨み声をもらしたりしないならば、 政治が公平で裁判に不公平がない証拠で ある。私と共にこのような政治を行って
欲しいものだ。頼りとするのは、 賢明なる地方官のみである」
漢代の優秀な地方官は、
宣帝の頃が最も多かったと言われる。
宣帝は漢王朝の 中興の祖と称(たた)えられた。
南北朝時代の陳の二代目、 文(ぶん)皇帝に関し、 「十八史略」中にこう記されている。
「陳主のセン、つまり文皇帝は、 艱難の間から身を起こした人であるから、 民の苦しさをよく知っていた。
はっきりと真相や事態を見抜くことが 得意で、倹約勤勉であった」
各王朝の創業者、漢の宣帝、陳の文帝らは、
苦労のなかから自然と欲望を抑えることを 学んだのであろう。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」
ということわざは、こうした歴史にも 裏付けられており、説得力がある。
しかし、いくら苦労を重ねていても、 いつかそのことを忘れ、欲望に走ることが 多いのもまた事実である。
そうならないようにするためには、 優れた人物を自分の側に置き、時折、 注意を発してもらうようにすることが
有効である。
→続く「欲望を制御するものと方法(3)名宰相管仲」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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