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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
8.時代を読む先見と行動編
大波乱の時代は過去に何度も起きている(4)また領土問題
ところが、北宋と契丹に服属しながら 国力増強を着々と進めてきた
西夏(せいか)は、 明道(めいとう)元年(西暦千三十二年)、 趙元昊(ちょうげんこう)
(李元昊と表記される場合もある。祖父の 時代に宋から「趙」の名字を与えられた) が国王になると、北宋領内にたびたび
侵入するようになった。
そのため北宋の西方の国境付近が 騒然としてきた。
契丹は、北宋の朝廷が西夏対策に 悩まされているのにつけ込んで、 海路からの使者を送り、またもや
関南の旧領土の返還を要求してきた。
これには知制誥(ちせいこう) (天子の詔〈みことのり〉の執筆担当者)の
富弼(ふひつ)が北宋からの使者として 契丹におもむき、土地の割譲を拒絶した。
結果として、毎年、契丹に送る銀と絹を それぞれ十万ずつ増額することで和議を 結んだ。
その二年後、北宋は西夏とも条約を結び、 西夏王の趙元昊が北宋の臣下となるが、 北宋は西夏に銀、絹、茶、綵(いろいと)
合計二十五万五千を、毎年、 賜ることになった。
契丹、西夏とは、和議を結んだとはいえ、
いつ攻めてこられるか分からない。
このような状況下で、 北宋では軍事費を増大させざるを得ず、
また官僚も増えて人件費がかさんだ。
そのうえに契丹と西夏への歳幣(さいへい)
(貢物として毎年贈った金品、織物)が 加わって、豊かであった北宋は徐々に 財務状態が悪化していった。
ここにおいて時の皇帝、神(しん)宗に 重く用いられ、行財政改革を推進したのが 王安石(おうあんせき)である。
→続く「大波乱の時代は過去に何度も起きている(5)王安石の政治改革」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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