将軍の劉整(りゅうせい)は元に降伏して、
南宋を亡ぼすことについて献策した。
「ゆっくり取るならば、蜀(しょく)の地方
からじわじわと支配を広げつつ下って いかれるとよいでしょう。
早く取るならば、襄(じょう)水、
淮(わい)水などの川のあたりから 進むのがよろしいでしょう」
時に、南宋の内幕を知りぬいた諸将が
相次いで元に降った。
南宋にとっては大打撃であるにも かかわらず、賈似道(かじどう)は天下泰平
であるかのように見せかけて、元軍の侵入に ついても知らないふりをした。
南宋の咸淳(かんじゅん)九年
(西暦千二百七十三年)、 ついに襄陽(じょうよう)の城が元の手に 落ちた。
元の強兵が城を取り囲んだが、 守将は防御を固めて六年間も守り抜いた。
しかし、兵を救援に向かわせることを
賈似道が許可しなかったため、 食糧はまだ足りていたけれども、 衣服や燃料などを供給する方法がなくなり、
家屋を壊して燃料とし、役所の受領証書を つなぎ合わせて衣服とするなどした。
しかし、とうとう城を明け渡して降参し、 守将も寝返って元に仕えた。
賈似道は、表向きではみずから都を出て軍を
率いたいと何度も上書したが、実は裏で朝廷 に自分を引き止めるよう言い含めており、 なかなか出発しなかった。
結局、皆に催促されて、徳祐(とくゆう) 元年(西暦千二百七十五年)、賈似道は
諸軍を率いて都督府を出発したが、 わざと回り道をして数日かけて蕪湖(ぶこ) に到着した。
それから安慶府(あんけいふ)に赴き、 水軍を用いて下流にいる元軍をおびき寄せ ようとしたが、到着する三日前に、
安慶府の守将も元軍に降参していた。
賈似道の率いる将軍や士卒にも堅く守ろうと いう意欲がなかった。
そこで賈似道は士気を鼓舞すべく、 彼らの昇進を布告した。
ところが、
将士たちはこれを罵(ののし)って、
「今さら、昇進させてもらったところで 何になるか。
かつて二度も昇進を約束しながら 実行しなかったではないか」
賈似道は一言も答えることができず、
退却の合図の銅鑼(どら)を鳴らすこと 一声(いっせい)、 軍を珠金沙(しゅきんさ)の地まで 退かせた。
元軍は機を逃さず一気に攻め立てたので、 南宋の十三万の大軍はどっと崩れた。
→続く「崩壊後に起きること…(7)賈似道、失脚」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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