南宋(そう)の理(り)宗皇帝の頃、
元(げん)の皇帝の弟、忽必烈(くびらい) が南宋の鄂(がく)州を攻撃したとき、 鄂州で南宋側の軍を率いていたのが
賈似道(かじどう)であった。
城中の死傷者が一万三千人にも達し、 忽必烈の攻撃の激烈さにすっかり
怖気(おじけ)づいた賈似道は、 ひそかに元側に使いを送って、
「今後、南宋の皇帝は元の皇帝に対して
臣と称し、年々、貢物をするので 休戦としたい」
と申し入れたが、忽必烈は許さなかった。
しかし、ちょうどこのとき、元の皇帝、 憲(けん)宗死去という知らせが入った。
元では、次の皇帝問題が起こっており、 すぐに帰国する必要にかられた忽必烈は、 賈似道の和議の申し出を承諾し、
南宋からの貢物の数量などを取り決めて、 自分は北方へと帰った。
南宋の景定(けいてい)元年
(西暦千二百六十年)、 元では忽必烈が皇帝となった。
そこで鄂州の元軍は北に還った。
南宋の賈似道は、部下に命じてその後軍を 新生磯(しんせいき)の地で打ち破った。
→続く「崩壊後に起きること…(3)賈似道の秘密」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
|