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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

方向のあいまいさが命取りに(1)成吉思汗の読み    


わが国はどのような方向へ向かうのか。

例えば、誰と手を組んで誰と敵対するのか、
どのようにして国家を維持していくのか、
といった大方針はしっかりと固定しておき、
その範囲内で個々の具体策を決めるように
しなければ、打つ手がバラバラになって
しまい、国家滅亡へと向かうことになる。

南宋(そう)の理(り)宗皇帝の宝慶
(ほうけい)三年(西暦千二百二十七年)
七月、元(げん)の太祖、
成吉思汗(じんぎすかん)が没した。

臨終に際して、お側の者にこう遺言した。

「金(きん)の精鋭な兵士が
 潼関(とうかん)の地を守っており、
 南は連なる山々を盾とし、
 北は黄河を境としているので、
 破るのは簡単ではない。

 そこで金を伐(う)つには道を宋に
 借りるに越したことはない。

 南宋は金と昔から仇敵の間柄なので、
 きっとわが軍の通過を許してくれよう。

 そうなったら兵を唐(とう)、鄧(とう)
 の方面に進め、ただちに
 ベン京(べんけい)を攻撃するのだ。

 ベン京があやうくなれば、
 金はきっと潼関の兵を徴集するだろう。

 しかし、数万の大兵を率いて千里の道を
 やってくれば、人馬は疲弊して、たとえ
 ベン京に到着しても戦うことはできまい。

 必ず金を破ることができる」

言い終わると、成吉思汗は死んだ。

在位二十二年、六十六歳であった。

遺体は起輦谷(きれんこく)の河畔に
葬られた。

のち元の世祖の至元(しげん)二年
(西暦千二百六十五年)冬、成吉思汗に
後から諡(おくりな)を贈って聖武皇帝と
いい、廟(びょう)を太祖と号した。

成吉思汗は沈着冷静でしかも雄大な戦略を
もっていた。

兵を用いることは神のように
素晴らしかった。

彼が亡ぼした国は四十にのぼり、
その勲功はきわめて大きかった。

「十八史略」の著者
〈曾先之(そうせんし)〉は、
歴史の記載が十分でないのは
残念なことだと述べている。

→続く「方向のあいまいさが命取りに(2)同盟を結ぶか否か」
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