東漢(かん)の末期、赤壁(せきへき)の
戦いの後に荊(けい)州を治めることと なった劉備(りゅうび)は、 ホウ統(ほうとう)を耒陽(らいよう)の
県令にしたが、なかなか県内をきちんと 治めることができなかった。
呉(ご)の魯肅(ろしゅく)は劉備に
手紙を送ってこういった。
「ホウ統は百里四方程度の小国を治める 才能の持ち主ではありません。
治中別駕(ちちゅうべつが)(州の長官の 副官)の職につければ、本来の優れた能力
を存分に発揮することができるはずです」
そこで劉備はホウ統を その助言に従って用いた。
諸葛亮(しょかつりょう)と同じレベルの 地位を与えられたホウ統は、 劉備に益(えき)州を取るように勧めた。
劉備は関羽(かんう)を荊(けい)州の 守将に命じ、みずから兵を率いて長江を
さかのぼり、巴(は)郡から蜀(しょく)郡 に入り、劉璋(りゅうしょう)を襲って 成都(せいと)に入った。
こうして劉備は益州を占領し、 蜀(しょく)を建国したのである。
ホウ統の策にしたがって成功したのだが、 残念ながらホウ統自身は劉璋の部隊と 交戦中に戦死した。
小さな仕事をさせてうまく出来ない者に 大きな仕事を任せるのは無謀といっても よいだろう。
しかし、劉備はもともと、 人物鑑定家の司馬徽(しばき)から こう言われていた。
「時局に応じた仕事とは何かを知り、 かつ成し遂げる者はよほどの 俊傑(しゅんけつ)である。
このあたりに伏龍(ふくりゅう)、 鳳雛(ほうすう)ともいうべき大人物が いる。
それは諸葛孔明(しょかつこうめい)と ホウ士元(ほうしげん)(ホウ統のこと) である」
この情報が頭にあったことと、当時、 信頼していた魯肅からの助言によって、 より大きな仕事をさせてみようと
思ったのではないだろうか。
結果的にそれは正しい人事となり、 劉備は蜀を建国できたのだ。
信頼できる人物からの助言に 耳を傾けられることも、 上に立つ者に欠かせない能力である。
→続く「要職に誰をつけるか(3)鄭綮が宰相に」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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