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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

集団・組織(1)外戚の専横


現代の日本の政界で、
よく批判の的になるものに
派閥(はばつ)がある。

最初は勉強会という名目でスタートしても、
徐々にグループに属する議員の利権を守ろう
とするような動きが出てきて、国家や国民の
ための活動とずれてくる部分があるからだ。

ならば、派閥は禁止すればよさそうだが、
そう簡単にはいかない。
人は徒党を組む生き物だからである。

一人では生きていくのはつまらない。
気の合う仲間と一緒にいる方が楽しい。
一緒に過ごすことが多くなると情が湧く。
助けたり、助けられたりすることも増える。

そうなると、多少、自分の考え方と違うよう
なことでも、仲間を助けるために目を
つぶって行うことも出てくる。

逆に、自分が困ったときは助けてもらえる。
これには良い面と悪い面があるが、
欲望でつながっている度合いが強いほど、
悪い方に進んでしまうようである。

最も強固なのは血縁でのつながりだろう。

西漢の孝武(こうぶ)皇帝(武帝)の時代、
武帝の衛(えい)皇后の弟の
衛青(えいせい)は大将軍となり、
衛皇后の姉、衛少児(えいしょうに)の
子の霍去病(かくきょへい)も若くして
大将軍なみの地位を与えられた。

衛少児が霍中孺(かくちゅうじゅ)という男
の妾(めかけ)となって生んだ子なので、
霍という姓となったのである。

霍中孺は、その後、別の女との間に男子が
生まれた。これを霍光(かくこう)という。

衛皇后の近親者が朝廷内で力を持ったわけ
だが、当初はこれがうまく機能していたと
思われる。

まず衛青は極めて謙虚な人物であった。

彼は下級官吏だった父親が主家の召使の女と
密通して生まれた。

父親に引き取られたものの、
正妻の子どもたちなどから奴隷のように
扱われ、不遇な少年時代を過ごした。

こうした苦労が彼の人格を育んだようで
ある。将軍としても実に優秀であった。

一方、霍去病は運にも恵まれ、
ついに叔父の衛青をも大きくしのぐ戦果を
挙げるようになり、
衛青の友人や食客(しょっかく)までも、
衛青を離れて霍去病の周囲に集まったと
いう。

苦労を知らずに育ち、早くからチヤホヤされ
た霍去病がそのまま軍のトップであり続けて
いれば、外戚としての権力を多方面に振るう
ようになったかもしれない。

しかし、彼は二十四歳の若さで病没した。
そのため、謙虚な衛青が軍の第一人者の地位
を維持したのである。

また、武帝が亡くなるときに、
幼い太子弗陵(ふつりょう)
(後の孝昭(こうしょう)皇帝)の後見役と
して選んだ霍光について、
武帝は極めて忠実で信頼のおける人物である
と評価している。

わざわざ、周公旦が幼い成王を抱いて諸侯に
謁見を賜うている図を描かせ、
霍光に下賜したのだが、これは

「周公を理想として励め」

と暗に霍光に伝えたものであろう。

昭帝自身も霍光を信頼し、
霍光もそれに応えた。

反霍光派による反乱も起こったが、
昭帝との関係は揺るがず、無事、鎮圧した。

ところが、これで霍光派がすべての権力を
握るようになると、
霍氏一族の驕慢(きょうまん)ぶりが
激しくなっていった。

霍光自身は、昭帝が
二十一歳で亡くなった後、
孝宣(こうせん)皇帝(宣帝)(せんてい)
の御世でも政治をまかされていたのだが、
宣帝が自分で選んだ妻である許皇后を
霍光の妻の顕(けん)が毒殺し、
自分の娘を皇后にするなど、
横暴ぶりが目立ってきた。

霍光が死ぬと、宣帝は徐々に霍氏の実権を
取り上げていった。

地節(ちせつ)四年(前66年)、
霍氏一族は反乱をたくらんだが、
これが発覚して一族は皆殺しとなった。

血縁でのつながりは非常に強固である。
協力関係も作りやすい。

よって、私欲が薄く、公のために働こうと
いう精神が働いている間は健全な方向へ
発展していく。

ところが、公が忘れられ、
私腹をこやすことが中心に置かれると、
途端に滅びの方向へ転じるのである。

同族経営では
よくよく気をつけねばならない。

→続く集団・組織(2)宦官の台頭」
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