唐(とう)の太宗は名君中の名君であるが、
後継者の選定にあたっては外戚の意向を 無視できなかった。
皇后の兄、長孫無忌(ちょうそんむき)に
強力に勧められて、やむをえず治(ち) (後の高(こう)宗)を太子とした。
しかし、太宗は帝王の心得を説いた
書「帝範(ていはん)十二篇」を 太子に授け、こういった。
「身を修め、国を治める道は、
ことごとくこのなかに書いてある。
だから、もしも私がこの世を去ることが
あっても、何もいうことはないぞ」
高宗は、中国の歴史上、最高の教科書を もらって即位した皇帝ということが
できるだろう。
太宗も、この息子が名君となることを 期待していたに違いない。
ところが、結果は
則天武后(そくてんぶこう)に 王朝を簒奪される事態にいたった。
この事例から、
どんなに最高の教えを授けても、 教えた側の思惑通りにはいかないと 分かるのである。
→続く「死にゆく者が考えること(6)光武帝の成功要因」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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