主人が亡くなった後、 自分の欲望を実現させるために誤った方向へ
進もうとする者は多いが、 なかには主人以上に正しい政治を行おうと 努力する者もいる。
北宋(そう)の神(しん)宗皇帝は、 精力的に政治に打ち込んだ。
日が西に傾くまで
食事も口にしないほどであった。
平生、狩猟に出かけることもなく、 宮室の修繕もせず、勤倹(きんけん)一方
で、大いに国を発展させようと努力したが、 不幸にも王安石(おうあんせき)の新法に 誤りがあり、うまくいかなかった。
また、北方をおびやかす遼(りょう) (契丹(きったん))に激しく憤り、 幽(ゆう)州や燕(えん)州の地を
取り返すことを目指していた。
そのためにはまず、西夏(せいか)を 取って、吐蛮(とばん)を亡ぼし、
その後に遼を討とうと考えていたが、 たまたま安南(あんなん)征伐で軍律を 失ったことで敗北を喫し、罪もない大勢の
人民がむごい死に方をしたことを 嘆き悲しんだ。
さらに永楽(えいらく)城で西夏に大敗し、
戦争の難しさを知った神宗は、 このときから征伐を断念したのだった。
こうして神宗は、内政も外征も意の如くに
ならないまま、失意のうちに崩御した。
三十八歳であった。
次に神宗の長男が即位した。
これを哲(てつ)宗皇帝という。
哲宗はわずか十歳の少年だったので、 祖母にあたる太皇太后が摂政となり、
政事を行った。
太皇太后はかつて神宗に涙を流して 王安石の新法が民のためになっていない
ことを訴えたことがあった。
彼女は政権を手に入れると、 王安石の新法をことごとく廃していった。
すべて太皇太后の考えで行ったもので、 大臣らはまったく関係しなかった。
元祐(げんゆう)八年(西暦千九十三年) 九月、太皇太后は亡くなった。
臨終の際、太后は哲宗に対面しつつ、
大臣らに向かってこういった。
「この老いた身があの世へいった後は、 必ず多くの者が帝を侮って
もてあそぼうとしてくるであろう。
しかし、決してこれを許してはならぬ。
そなたらもなるべく早く職を退いて、 帝に新規の人を用いさせるように してほしい」
また、お側の者どもに対しては、
「この大臣たちに、秋の社飯(しゃはん)
(春分、秋分後の第五の戊(つちのえ) の日に配る、豚や羊の肉を炊き込んだ 飯)を配ったか」
と質問された。
まだ配られていないと知るや、 太皇太后は大臣らに、
「その方たちはそれぞれこの場を去り、 別室で一さじの社飯を食べなさい。
来年の社飯の時が来たら、
この老婆を思い出しておくれ」
といって、亡くなった。
太皇太后は、
政事に携わること九年間であった。
天下の人々は
「女の堯(ぎょう)舜(しゅん)である」
といって賞賛した。
自分の親戚の高(こう)氏に えこひいきをすることはなかった。
また、哲宗を養育するために、 自分の生んだ二人の王子と一人の王女さえ 疎んじるほどであった。
あくまでも公平な態度で天下を治めたので、 この時代の賢人は皆、朝廷に集まった。
君子の多くて盛んであることは、後世、 仁(じん)宗(北宋の第四代皇帝)の 慶暦(けいれき)時代と、太皇太后の
元祐(げんゆう)時代を並べ称するほどで ある。
軍事行動を厭うた神宗の後を引き継いで、
太皇太后も民と休息された。
ときに宋の国境警備の隊長が、 西蕃(せいばん)の酋長をつかまえて
都に護送してきた。
太皇太后は酋長を許して殺さず、 その部族を招いて帰化させた。
時々、夏(か)の国が宋の国境を攻めてきた けれども、国境付近の兵備を厳重にして 防備させたのみであった。
王安石の新法に対する評価は分かれるところ であり、太皇太后が次々に新法を廃したのが
正しかったかどうかは何ともいえない。
しかし、「十八史略」の著者が褒め称えて
いるところを見ると、当時、太皇太后に 対して、その公平さや博愛主義的な部分に
対して、人民や役人からも一定の評価を得て いたのは確かなようである。
わが子、神宗の誤りを、
太皇太后は母の責任において、 必死で帳消しにしようと頑張ったのでは ないだろうか。
政治の方向性としては疑問が残るにしても、 主人の後に残されたものの行動としては、
あくまで「私」よりも「公」を大事にした 点で評価できる。
企業においても、社長が亡くなったとき、
社員の多くは、
「私たちはどうなるのか」
と、自分のことを考えるものである。
そんなときでも、
「会社をどう運営すれば発展していくか」
と考えられるのが
リーダーに向いている人間だ。
社長は日ごろからそうした人材に目をつけ、 万が一のときに備えてじっくり育てて
おくべきである。
→続く「死にゆく者が考えること(1)管仲でも無理」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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