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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

権力と硬直化(1)成帝と佞臣     


権力者には、危機に直面したときに柔軟な
判断が出来る者が少ない。

なぜなら、
自分の欲望を捨てられないからだ。

彼らにとって重要なのは、国家の浮沈では
なく自分の地位の浮沈である。

まず、自分が没落しないことを第一優先で
考えるため、どんなに危機に直面しても、
他人に功を渡すような人事はしないし、
自分よりも優秀な人物は排除しておこうと
動く。

その結果、組織は硬直化し、最終的に
権力者自身もすべてを失うことになる
のである。

西漢(かん)の中興の祖、
孝宣(こうせん)皇帝の死後、
即位した孝元(こうげん)皇帝は、
西漢を没落させ始めた皇帝であった。

病いがちであった元帝は儒学を重んじた
人物だったが、他人を見る目は節穴で、
政事を一人のずる賢い宦官(かんがん)に
任せてしまった。

その宦官は外戚(がいせき)とも通じて
おり、専横に振る舞った。

こうした状況下で即位したのが元帝の子、
孝成(こうせい)皇帝である。

成帝は、幼少の頃は経書ばかりを
好んでいた。

その後、酒と音楽に興味をもつようになり、
酒盛りを楽しむようになった。

元帝のときに太子となったものの、
あまりに遊んでばかりなので太子を
廃されそうになったが、
このときは元帝に対して、
泣いて廃嫡を止める者があったため、
廃されずにすんだ。

成帝は即位すると、
王(おう)氏(元帝の皇后)を尊んで
皇太后とした。

そして母方の第一の伯父の王鳳(おうほう)
を大司馬(だいしば)大将軍とし、
尚書(しょうしょ)(審査を通った法案を
行政化する役所)に当たらせた。

また、成帝の母方の叔父を
安成(あんせい)侯に封じ、その他、
王氏の一族五人にも関内(かんだい)侯と
いう高い爵位を与えた。

この日、太陽は光を失い、
黄色い霧が一面にたちこめるという
不吉な兆しがあった。

河平(かへい)二年(紀元前二十七年)、
成帝は王皇太后の兄弟全部を列侯に封じた。

陽朔(ようさく)三年(前二十二年)、
大司馬大将軍の王鳳が死んだ。

弟の王音(おういん)が大司馬となった。

王譚(おうたん)が近衛兵を管轄した。

鴻嘉(こうか)四年(前十七年)、
王譚が死んだ。

王商(おうしょう)が近衛兵を管轄した。

永始(えいし)元年(前十六年)、
成帝は王皇太后の弟である
王曼(おうまん)の子である
王莽(おうもう)を新都(しんと)侯に
封じた。

永始(えいし)二年(前十五年)、
王音が死んだ。

王商が大司馬となった。

このように、成帝は王氏による権力の
独占を許していたのである。

ある者が上書していった。

「昨今、陛下のご命令は臣下に犯され、
 ご威光は奪われており、外戚の権力が
 日に日に盛んになっております。

 陛下、その実態の形をお察しに
 ならないのであれば、せめて現象として
 現れている天変地異の現象を
 お察しください。

 建始(けんし)元年以来、日食、地震の
 発生頻度は春秋時代の三倍に達し、
 水害も合わせると昔と比べ物にならぬほど
 天変地異が発生しています。

 陰の気が盛んで陽の気が衰え、
 沛(はい)県では鉄を鋳(い)たところ、
 鉄は飛び散り天に上ったといいます。

 これらはいったい、何のために起こった
 現象とお思いになりますか」

この意見書に対して、何の沙汰もなかった。

永始(えいし)四年(前十三年)、
王商が死んで、王根(おうこん)が
大司馬となった。

安昌(あんしょう)侯の張禹(ちょうう)
は、成帝の教育係であるという理由で、
朝廷で重大な事案を扱う際には、
必ずその評議に加わっていた。

その頃、
多くの役人や人民が上書してこういった。

「最近、天変地異が多いのは王氏が独断で
 政治を行っているからです」

成帝は張禹の邸に行き、お側の者を退けて、
みずから張禹にそれらの上書を見せ、
意見を求めた。張禹は、自分はすでに
年老いており、子孫が幼少であることから
王氏に怨まれることを恐れた。

そこでこう答えた。

「春秋時代の日食や地震は、
 諸侯が殺し合ったり、
 夷狄(いてき)が中国に侵攻してきたり
 したために起こったものでしょう。

 天変地異の原因は
 なかなか測り難いものです。

 だからこそ、孔子のような聖人でも
 天命について口にしたのはまれで、
 不思議な現象や存在については
 語らなかったのです。

 人の性と天の道についての話は、
 子貢(しこう)のようなすぐれた
 弟子たちでも聞けませんでした。

 まして、考えが浅い儒者らが
 何をいう事ができるでしょう。

 学んで間もない者どもの上書は、
 天下の大道を乱し、
 人を誤らせるだけです。

 信用してはなりません」

成帝は張禹を信頼し、愛していたので、
彼の言葉を信じて王氏を疑うことは
しなかった。

ある者が上書してこういった。

「願わくは、尚方(しょうほう)
 (天子の御物を保管する機関)で
 保管している斬馬剣(ざんばけん)
 (鋭利な剣)を賜り、
 一人の佞臣(ねいしん)の首を斬って、
 その他の者を励ましたいと存じます」

成帝が、

「それは誰のことか」

と問うたところ、
その者が答えていうには、

「安昌侯張禹でございます」

と。

成帝は大いに怒って、

「その方、小臣で下賤の身分でありながら、
 私の師を朝廷で侮辱するとは
 何事であるか。

 その罪は死刑に当たる。

 許すことはできぬ」

役人がその者を引き立てて下がろうと
したが、男は御殿の欄干にすがりつき、
動かなかった。

欄干が折れた。

男は大声でこう叫んだ。

「私は処刑されても、かつて君を諫めて
 死んだ殷(いん)の比干(ひかん)らと
 地下で遊べれば満足でございます。

 ただ、朝廷が今後どうなるか、
 それだけが心配です」

このとき、左将軍の辛慶忌(しんけいき)と
いう者が感激して、頭を床に打ちつけて
この男のために命乞いをしたので、
成帝は許すことにした。

その後、折れた欄干を修理するときになって
成帝は、

「欄干を取り替えてはならぬ。

 折れた木片を集めて修復し、
 直言する臣を表彰するのだ」

といった。

成帝はこのように直臣を好む一面もあった
ものの、酒色にうつつをぬかすことが多く、
外戚の王氏らによる専横を許した。

それを批判する上書もあったが、
自分の地位が揺らぐことがなかったためか、
真正面から取り上げることは
無かったようである。

張禹らが宰相を務めたが、
西漢王朝は衰えるばかりであった。

→続く「権力と硬直化(2)王莽、仮皇帝に」
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