南宋(そう)の光宗(こうそう)皇帝は 四十四歳のとき、父である
寿皇(じゅこう)(孝宗〈こうそう〉皇帝) から帝位を譲られた。
光宗の皇后の李(り)氏は、
激しい気性で嫉妬深かった。
今、嘉(か)王に封ぜられている自分が 生んだ皇子を早く太子に立てたいと思い、
宮中で開催された内輪の宴(うたげ)の際に 寿皇に頼んでみたが、 許してもらえなかった。
このときの李氏の態度が無礼だったので、 寿皇は怒って叱りつけた。
これを不満に思った李氏は、
あることないことでっち上げ、
「寿皇は陛下を廃して、 他の者を天子に立てるおつもりです」
といった。
光宗は驚き恐れて疑惑と嫉妬に さいなまれるようになった。
ノイローゼ状態である。
後宮で頓死(とんし)した者があると聞く と、光宗は「明日はわが身」と体を震わせ
て恐れ、病気はいよいよ重くなっていった。
光宗は、寿皇のいる 重華宮(ちょうかきゅう)には行かなく
なり、二年近くたってようやく一度だけ 行った。
そういう状態なので、寿皇はますます 不機嫌になった。
光宗も自分が病気で、寿皇の病気を 介抱することができなかった。
寿皇は重華宮に五年以上いて、
六十八歳で崩御された。
光宗は病気のために、喪に服する礼を とることすらできなかった。
ある日のこと、光宗は突然、 バッタリと倒れたことがあった。
朝廷の内も外も、この先どうなることかと
心配したので、寿皇の母の太皇太后が 嘉王を太子に立て、即位させた。
これを寧宗(ねいそう)皇帝という。
その六年後、光宗は五十四歳で崩御した。
皇后の悪巧みさえなければ、
もしかしたら光宗はもう少しまともに 天子としての仕事をこなすことが できたかもしれない。
寧宗がまだ嘉王であった頃、 黄裳(こうしょう)という者が嘉王を 善道へ導く係となって嘉王に
講義したり指導したりしていた。
光宗はあるとき、黄裳にこういった。
「嘉王の学問が進んでいるのは、
皆、そなたの功績である」
すると黄裳は、
「もしも嘉王さまに徳を積ませ、
学業を修めさせ、古(いにしえ)の聖王の 跡を実践させようとお望みであるなら
ば、ぜひとも天下第一の人物を尋ねて、 その人物に学ばせられるのが よろしかろうと存じます」
と進言した。
光宗が、
「その人物とはいったい誰か」
と尋ねたところ、黄裳はこう答えた。
「朱熹(しゅき)でございます」
黄裳が退任後に嘉王に講義した者は、 いつも朱熹の説を語ったという。
光宗が意識的に、儒教の中興者であり
朱子学の創始者である朱熹の教えを語る者 を、太子の教育係に任命したのだろう。
このような光宗が、
ただの暗愚な皇帝だったとは考えにくい。
皇后の仕掛けた罠にはまり、 帝位を譲らなければならない状況に
陥ることの恐怖におびえ、皇帝としての 仕事が十分にできなかった光宗。
己の地位を守ることに汲々としていたため
に、父である寿皇をも信じることができず、 ひざを詰めて話し合うこともしなかった。
その結果、子である嘉王に帝位が譲られた のは皮肉なことであった。
意志の弱い、受身的な権力者は、
周囲の陰謀に翻弄され、 貶められていくのみである。
→続く「右腕が邪魔に(1)趙高と李斯」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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