呉の国では、 太伯から十九代で寿夢(じゅぼう)に至り、
始めて王と称した。
寿夢には四人の男の子があった。
末子を季札(きさつ)といった。
季札は賢人であった。
そこで寿夢は、三人の子に上のほうから 順番に国を継がせ、最後に季札に番が
回るようにしようと思った。
しかし、季札は、それでは父子相続の義に 背くとして承知しなかった。
そこで結局、季札は延陵(えんりょう)の 地に封ぜられ、延陵の季子(きし)と 呼ばれた。
「史記」によると、 ここで季札が継がなかったことから、 季札のすぐ上の兄は王位を自分の息子に
継ぎ、長男の息子であった者 (のちの呉王、闔廬(こうりょ))と 争いが起こっている。
古公が季歴に継いだのは成功して、 寿夢が季札に継ごうとしたのは失敗に 終わり、それどころか朝廷に内紛を
起こしてしまった。
どんなに優秀な息子であっても、 本人にその気がなければ、
無理やり継ごうとすると失敗すると いうことであろう。
寿夢は季札の意思を尊重し、
兄弟間で王位を回さず、 慣例の通り父子相続をきちんと すべきだった。
→続く「権力承継の順序(3)趙匡胤と弟」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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