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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
6.リーダーの条件と承継編
人間が寵愛しやすい順番と傾向(5)玄宗、徽宗と佞臣
唐(とう)王朝の玄宗(げんそう)皇帝が
即位した直後の頃、朝廷内で権力を 握っていた太平公主とその一派を誅殺した が、このときに大功を挙げたのが
宦官の高力士(こうりきし)であった。
開元(かいげん)元年(西暦七百十三年)、
高力士が右監門(ゆうかんもん)将軍と なり、宦官をつかさどる役所の事務をも 掌握することとなった。
その役所に関する制度を太宗皇帝が定めた とき、役所には三品(さんぽん)の地位に ある高官は置かなかった。
宦官たちはいずれも卑しい黄色の官服を身に つけ、手当ては扶持米(ふちまい)のみ。
その仕事も、門の出入りを取り締まったり、 君命を伝言したりするに過ぎなかった。
ところが、高力士の抜擢以来、
宦官のなかから三品将軍に任命される者が しだいに増え、宦官の数も増加して三千人に 達した。
唐で宦官の勢力が盛んになったのは このときからである。
宦官でなくても、つらい心の内を和らげて
くれる追従(ついしょう)がうまいものは、 天子の寵愛を受けることが多い。
長く政権の座に座り続け、
政治に対する関心の低くなってきた玄宗の 周囲からは、いつの間にか開元(かいげん) の治の当時の賢才がいなくなり、
李林甫(りりんぽ)、 安禄山(あんろくさん)、 楊国忠(ようこくちゅう)などの 佞(ねい)臣や姦(かん)臣が
のさばるようになった。
北宋王朝の末期、徽宗(きそう)皇帝は、 蔡京(さいけい)ら佞臣の言いなりと
なって盛んに土木工事を行ったり、 豪奢な生活を送ったりして、 金(きん)に国都である開封(かいほう)を
奪われるきっかけを与えた。
このように、人は異性、子供、佞臣などを 寵愛してしまいがちである。
→続く「人間が寵愛しやすい順番と傾向(6)明宗の善政」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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