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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

親子・兄弟(3)隋の煬帝


呂不韋にとって、
わが子は自分が権力をつかむための
道具に過ぎなかった。

その一方で、子の側で権力奪取のために
父や兄弟を殺す者もいた。

隋の煬帝(ようだい)がその代表例である。

中国は四世紀の始め頃から、
淮水(わいすい)
(中国東部を東へ流れる川)
のあたりを境にして、南を漢族の王朝が、
北を異民族の王朝がそれぞれ支配する
南北朝と呼ばれる時代が270年余
続いたが、隋(ずい)がこれを統一した。

隋王朝を開いたのは
高祖(こうそ)文皇帝、楊堅(ようけん)
である。

文帝は真剣に政治に取り組み、
国を富ませたが、後継者問題で
大きなミスをしてしまった。

文帝は最初、勇(ゆう)という長男を
太子とし、政事に参加させていた。

勇の決定によって益することもあれば
損することもあったが、
勇の性格は心広く親切であり、
しかも率直で飾ることをしなかったと
いうから、まずまず合格点を与えられる
後継者だったのだろう。

しかし、帝が倹約家であるのに対して
勇は衣服、調度などに贅沢だったので、
帝の彼への愛情は少しずつ薄らいでいった。

そのうえ勇はお気に入りの女が多く、
妾腹の子女も多かった。

そんな中、正妻は寵愛されないまま
悶(もだ)え死んでしまった。

文帝の妻で勇の母である
独孤(どっこ)皇后は、
こんな勇を深く憎んだ。

一方、
帝の次男で晋(しん)王の広(こう)は、
上辺を取り繕い、太子の地位を奪取する
計略をたくらんだ。

皇后は勇を廃するよう帝に勧め、
新たに広を太子に立てさせたのである。

仁寿四年(西暦604年)、
帝は病気の床に就いた。

そこで太子の広を宮中に呼び入れ、
殿中に詰めさせた。

太子は帝が崩御した後の事について、
書面で宰相の楊素(ようそ)に相談した
ところ、その返書を取次の宮人が
間違って帝の所に送った。

それを読んだ帝は大いに怒った。

早くも自分の死後の相談をしていたので
あるから当然であろう。

また、あるときのこと。
帝の寵愛していた陳(ちん)夫人が
着替えをしている最中、広が突然、
襲いかかった。

陳夫人が必死に拒んだので事なきを得たが、
帝は夫人の顔色がいつもと異なるのを
怪しみ、訳を尋ねた。

夫人がはらはらと涙をこぼして

「太子が私に無礼なことを…」

と事の次第を話すと、帝は激怒し床を叩いて

「畜生め、どうしてあんなひどい奴に国の
 大事を託すことができようか。
 独孤(皇后)めがわしを誤らせたのだ」

と言って、もとの太子の勇を召そうとした。

広はこれを聞いて、
太子付の役人である張衡(ちょうこう)と
いう者に命じて帝の病気の看病をさせ、
隙を見て帝を殺させた。

また、人をやって勇も殺した。

かくして広は、父と兄を殺して帝位を
つかみとったのである。

このような人間がまともに国家運営など
できるはずがない。

文帝が蓄えた国力をわずかな期間で
土木工事や外征、豪奢(ごうしゃ)な暮らし
などに費やしたため、
民は疲弊(ひへい)し、
各地で蜂起(ほうき)する者が相次いだ。

そして最後は自らの部下に
絞め殺されてしまった。

この煬帝(ようだい)の悪政により、
隋王朝はわずか三代、三十七年で滅亡した。

権力欲に取り付かれた者にとっては親も
兄弟も、自分の子ですらも、
権力奪取の道具となる。

子は自分の私物、
親は自分のために動いてくれる便利な機械
といった認識なのだ。

そしてもし、邪魔であればそれが
身内であっても、
力ずくで排除しようとする。

企業経営においても、

子供に継がせたいという気持ちの根底に、
自らへの利益誘導や支配力の維持と
いった欲望があるならば呂不韋に近く、

子の側の自分に継がせて欲しいという
気持ちの根底に、
地位や権力を楽に手に入れて好きなことを
やっていきたいというような安逸な気持ち
があるならば煬帝に近い

といわざるを得ないのである。

→続く「男と女(1)蘇秦のため息」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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