しかし、人間はそのような動物的な側面のみ
で生きているのではない。
人は教育によって人となる。
認識が変われば、従う理由も変わってくる
ものである。
飯が食えないのに、利益が得られないのに 従うという場合もあるのだ。
南宋王朝は元(げん)軍に滅ぼされるが、 最後の最後まで宋王室にしたがい、 戦い続けた武将がいる。
文天祥(ぶんてんしょう)である。
当時、元軍の侵攻を受ける中、 文天祥は抗戦論を唱えたが、
最高司令官の陳宜中(ちんぎちゅう)は 元軍に使いを送り、 平和的解決を求めさせた。
また、文天祥らには勅命を下し、 元軍と戦うことを禁止した。
しかし、元軍がいよいよ南宋の国都
臨安(りんあん)に迫ってきたとき、 陳宜中は夜に紛れて逃げ出した。
文天祥は南宋の使者となって元軍の陣営に
赴き、語気鋭く、 悲憤慷慨(ひふんこうがい)して堂々と 議論し、屈しなかったのだが、
元軍はとうとう臨安に攻め入った。
ついに南宋は、 六歳の皇帝恭宗(きょうそう)、太皇太后、
皇太后の三陛下を奉じて元に降伏した。
三陛下は北方にある元の都燕京(えんけい)
へ移されることとなり、宋の皇室、公主の 婿(むこ)たち、女官、宦官、大学生など
数千人が北に送られる人数に加えられた。
この後、元軍と南宋の残党の死闘は 約四年に及ぶ。
南宋側は、恭宗の庶(しょ)兄(妾腹の兄) を即位させ、端宗(たんそう)皇帝とし、 元との戦いを続けた。
中国南部での戦いで、気候風土の異なる 地域での過酷な移動生活により、 十一歳の端宗は倒れ、
弟の祥興(しょうこう)帝を立てた。
文天祥はよく戦ったが、 興国(こうこく)の地で元軍に
不意打ちされ、妻子が捕虜となった。
彼はかろうじて脱出したものの、 その後、海豊(かいほう)の
五坡嶺(ごはれい)というところで 捕らえられてしまう。
元軍の大将、張弘範(ちょうこうはん)は、
文天祥の縄を解き、客人に対する礼で 面会した。
文天祥はあくまでも死を賜ることを
願ったが、張弘範は許さなかった。
ある人が張弘範に、
「彼は敵国の宰相なのだから、
何をたくらんでいるやらわからない。
あまり近づけない方がいい」
と忠告したが、張弘範は、
「彼は忠義を大切にする人物である。 他意はないことを保証する」
といって、文天祥の一族で捕虜にされている 者たちを捜し求め、ことごとくこれを
文天祥に還してやり、文天祥を自分の船の中 に置き、いつも自分の側に居らせた。
その後、元軍の攻撃にあって、ついに南宋の 最後の天子、祥興帝も亡くなった。
宋は亡んでしまった。
張弘範は戦勝を祝す大宴会を催した。
そうして、文天祥に向かい、
「あなたの国はもはや亡んだ。
あなたは最後まで忠孝の道を尽くした。
ここで心を改めて、宋に仕えたように
元に仕えるならば、元でも宰相に 任ぜられることは間違いなかろう」
といった。
文天祥がはらはらと涙を流していうには、
「祖国が亡び、救うことができなかったの
は、臣下として死んでも償うことの できない大罪です。
ましておめおめと死を逃れ、君に二心を
抱くことがどうして許されましょうか」
張弘範は、文天祥を忠義の士であると
感じ入り、元の都燕京(えんけい)へ 護送した。
文天祥は、その途中、故郷の吉(きつ)州を
過ぎる際、国が亡び、身は捕らわれて元に 送られることを残念に思い、 食事を摂らないこと八日におよんだが、
死ねずにまた箸をとった。
十月に燕京に到着し、元への服従を 勧められたが断り続けたので
獄につながれた。
節操はますます堅固になっていった。
その後、文天祥は三年の間、
元の誘いを断り続けた。
元の世祖フビライ・ハンは、 この忠義の士を惜しみながら 処刑を命じたという。
大方の人間にとって、 飯が食える、命が助かるということは、 人に従う重要な要素であることは
間違いない。
しかし、文天祥のように、 あくまでも敵側からの仕官の誘いを
拒み続け、死を選ぶという生き方がある。
「利」ではなく「義」を選んだのだ。
文天祥にとって、
南宋王朝は何にも代えがたい、 人生をかける存在であった。
人はこうした意識をもったとき、
「利」を捨てて「義」の心にしたがうもの
なのだ。
企業経営においても、 この双方が重要である。
社員がゆとりのある生活を送れる企業で なければならないと同時に、 業績が悪化して給与カットなどの事態に
陥っても、誰一人やめることなく、 一致団結して問題解決に取り組む企業を 作らねばならない。
社長が己を捨てて社会に奉仕する姿勢を 示すならば、社員は喜んで会社に忠義を 尽くすだろう。
→続く「承継でもめる理由と結末(1)劉邦の承継失敗」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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