周の文王は、西伯(せいは) (西方の統括を行う諸侯の長)となって
善政を施したので、諸侯がなつき従った。
あるとき、虞(ぐ)とゼイの両国が田地の
境界を争って、いっこうに解決しなかった。
そこで両国の君主は西伯の裁決を仰ぐべく、 周の国に行った。
ところが、一歩周の国境に入り、 耕作している者を見ると、 農民は畔(あぜ)を譲り合っており、
人民はなにかと年長者を大事にして 譲っていた。
二人はこれを見てすっかり恥じ入り、
互いに話し合っていうには、
「われわれの争っている事がらは、 この国では恥じて行わないことであった」
と。
そこで西伯には面会しないですぐに 引き返し、互いに田地を譲り合って 取ろうとしなかった。
漢(かん)水という川の南の地方でも、 西伯になつき従うものが四十ヵ国にのぼり、 皆、
「この人こそ、 天命を受けて天下を治めるお方である」
とみなすようになった。
こうして西伯は天下を三分して、 その二を領有したのである。
→続く「権力者とリーダーの違い(5)張良の反発」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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