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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

 豪奢から転落が始まる…(2)唐の憲宗も転落      


唐王朝には、前半は名君で後半は豪奢に
流れた皇帝がもう一人いる。

憲宗(けんそう)皇帝である。

安禄山の反乱に懲りた唐の朝廷では、
節度使(せつどし)という辺境警備隊の
隊長を国内にも置くようになったが、
これは駐屯地の民政・財政をも掌握して
自立した地方軍閥となり、
各地で反乱を起こした。

これによって秦の始皇帝以来、
長年にわたって追求されてきた
中央集権が崩壊へと向かうのである。

玄宗の五代あとに即位した憲宗は、
節度使の反乱を次々と鎮定した。

当時、杜黄裳(とこうしょう)以後、
名宰相が続々と輩出し、
詩人として名高い白居易(はっきょい)が
朝廷で正々堂々と直言したのもこの頃で
ある。

憲宗は、ご機嫌取りのうまい者と
剛直正義の士が議論した場合、
後者の意見を正直な意見として
採用することが多かった。

この頃の善政は

「元和の治」

と呼ばれる。

節度使の反乱でも、
特に手を焼いたのが淮西(わいせい)節度使
のもので、唐王朝は三十年余もかかって
ようやく帰順させることに成功した。

ところが、この頃から憲宗は、
張り詰めていた気が緩んだためか、
徐々に驕り高ぶって奢侈になった。

塩鉄使(えんてつし)(塩や鉄の専売を掌る
官)の程イ(ていい)という者が宰相と
なったが、この男は必要以上に税金を
取り立てて、それをたびたび憲宗に献上した
ことで特別に目をかけられていた人物だった
ので、朝廷内のみならず民間でもでたらめな
人事に驚いたという。

元和の治も
この頃からおかしくなっていった。

元和十四年(西暦八百十九年)、
鳳翔(ほうしょう)の地にある
法門(ほうもん)寺の塔中に安置してあった
仏指骨(ぶっしこつ)(釈迦の指の骨)を
迎えて長安の都に入れ、
これを三日間宮中に留めて供養したのち、
諸方の寺へ順々にまわして公開した。

王公も庶民も皆、先を争って参拝し、
喜捨(きしゃ)して、
ただ人に後れることを恐れた。

この様子を見て、刑部侍郎(けいぶじろう)
(法務大臣)の韓愈(かんゆ)は
上書して、口を極めて憲宗を諫め、
仏骨を水火に投じて民の惑いを解くように
願い出たが、憲宗は激怒して韓愈を
潮(ちょう)州の地へ左遷した。

この年、名宰相の裴度(はいたく)も
免職となった。

元和十五年、憲宗はにわかに崩御した。

憲宗は不老長寿の薬とされた
金丹(きんたん)を服用しているうちに
気ぜわしくなり、お側の者には罪もないのに
とがめられて殺される者があった。

人々は自分も危ないと感じていたが、
ある宦官(かんがん)の一味が
ついに憲宗を殺した。

彼らは口裏を合わせ、ただ薬物のために
起こった急病であると発表した。

名君だった者がこうして奢侈に流れ、
佞臣を喜び、不老長寿などの欲望実現に
走るのは誠に残念なことであるが、
このような事例は、

どんな聖人君子も落とし穴にはまる
危険性がある


ということを教えてくれるものである。

企業においても業績が伸びて財務状況も良好
であり、社内もよく統率されて組織風土も
好ましい状態で、さらに顧客の満足度も
高ければ、そのような企業の社長は
名社長と言ってよいであろう。

しかし、そんなとき、
苦労が報われたと感じた社長の心に、

「頑張ったのだから、ちょっとくらい
 贅沢をしてもよいのではないか」

という、かすかな欲望が芽生えるものだ。

これがくせ者である。

社長自身が日々のリズムを狂わさず、
かつての苦労した頃と同じように業務を
淡々とこなすことが、
企業をさらに発展させることに
つながるのである。

もしも、そうした仕事の仕方は
もはや難しいと感じるのであれば、
早急に事業承継を進めるべきであろう。

→続く 6.リーダーの条件と承継編「権力者とリーダーの違い(1)覇道と王道」
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