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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

繁栄が続く期間とリーダーの押さえどころ(1)孔子の理想の政治      


中国の王朝には長く続いたもの、
短命に終わったもの、さまざまある。

この違いは何によるのだろうか。

周(しゅう)王朝は、
紀元前千四十六年頃~紀元前二百五十六年の
間、およそ八百年続いたが、
途中の紀元前七百七十一年、幽(ゆう)王が
異民族の犬戎(けんじゅう)に殺され、
次の平(へい)王が都を西の
鎬京(こうけい)から東の洛邑(らくゆう)
に移してからは、以前とは
比べ物にならないほど没落してしまった。

周が実質的に支配していたのは、
この遷都の前までの約二百八十年間と
いうことになる。

これは比較的長い方だ。

王朝の初代天子から三代目のあたりに
おいて、しっかりした体制を築いたのが
大きい。

殷(いん)を亡ぼした周の武王は、
その後わずか二年で崩御した。

太子が即位して成(せい)王となったが
幼少であった。

そのため叔父(おじ)の周公旦(たん)が
みずから大宰相の地位について、
王政を代行した。

ところが、周公の兄弟二人が、

「周公は幼い成王から位を奪うつもりだ」

と根も葉もないことを言いふらし、
殷の後継者らと共に反乱を起こした。

乱が起こると周公は東征して、
二人の兄弟と殷の跡取りを誅殺したり、
追放したりした。

やがて成王が成長すると、
周公は大政を成王に奉還したのである。

これより先、武王は鎬(こう)に都を
造営し、これを宗周(そうしゅう)といい、
西都(せいと)とした。

さらに洛邑を造営しようと思ったが、
実現せぬままに亡くなった。

そこで成王は父である武王の遺志通りに
したいと思い、まず召(しょう)公
(周公の弟)に土地を検分させ、
さらに周公を落邑に派遣して、
王城を修築させた。

これがいわゆる東都(とうと)である。

落邑に都を築いたわけは、
ここが天下の中央に位置し、
四方から貢物を運ぶのに距離が
ほぼ等しいからである。

成王は、平生は西都におり、
諸侯を引見するときは東都で行った。

周公と召公は成王を助けて側近となり、
陝(せん)州以西は召公が、
東は周公が管理した。

交趾(こうし)(現在のベトナム北部
トンキン・ハノイ地方)の南に
越裳(えっしょう)氏という国があった。

使者が幾度も通訳を重ね、
はるばる周に来朝し、
白い雉(きじ)を献上して言うには、

「私は国の長老の命を受けて参りました。

 天に暴風長雨がなく、海に波風が立たない
 ことがすでに三年も続いておりますが、
 これは中国に聖人が現れて善政を
 敷いておられるのにちがいない、と」

周公はこれを成王の徳によるものであると
して、この雉を、先祖を祭った
宗廟(そうびょう)に供えた。

使者が帰路に迷い、また戻ってきた。

周公は幌(ほろ)がけの馬車五輛(りょう)
を贈り、どれにも南方を示す仕掛けを
施した。

使者はそれに乗り、扶南(ふなん)、
林邑(りんゆう)の地の海岸を経て、
まる一年かかって本国に帰着した。

指南車がつねに先導したからである。

周公のこうしたやり方は遠方の人々を
帰服させ、四方の国々を正す意味を
示したものである。

成王が崩御した後、子の康(こう)王が
即位した。

成王・康王二代の間は、天下は安らかで、
刑罰を捨てて用いないことが四十年以上も
続いた。

周が長く続いたのは、
武王から康王まで三代の間に周公、召公らに
よって、国内は天下泰平、国外は遠方の
国々までも心服するほどの体制を
作り上げたことによる。

これは孔子(こうし)が理想とした
政治体制であった。


→続く「繁栄が続く期間とリーダーの押さえどころ(2)長命の理由」
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