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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

人が富以外で欲しがるもの(2)宋王朝の臣下の忠誠心      


南宋(なんそう)時代の初期には、
再度、北上して、金(きん)に奪われた
宋の都を奪還することに命をかけた武将が
数多くいた。

金軍に攻め立てられ、
ついに北宋の国都開封(かいほう)が
落城した後、金軍は宋王朝を廃する手続きを
とってから去っていった。

宋は高宗(こうそう)皇帝を立て、
南の揚(よう)州に移った。

当時、開封にはまだ宋の勢力が残っていた。

そこで金軍は、三方面に分かれて南下し、
攻めた。

ところが宋の守将、宗沢(そうたく)に
よって敗北を喫した。

宗沢は群がる盗賊を組織化し、
全国から国の状況を憂える士を募って、
その数は百余万に達した。

糧食も半年を支えるだけはあった。

そこで上表文を矢つぎばやに送って、
高宗に開封へ帰還されるようお願いした。

しかし、ある和平派の宰相が宗沢の成功を
ねたんで朝廷の内部からこれを妨害した
ので、高宗は還らなかった。

宗沢は憤慨のあまり背中に腫れ物が出来て、
これが悪化して死んでしまった。

宗沢は臨終の際にも個人的なことは一言も
言わず、

「黄河を渡ろう」
(黄河の北側の金を伐とう、という意)

と、叫び続けて息を引き取った。

国都の人々は宗沢の死を悲しんで号泣し、
その最後の言葉を聞いた者は悲しみ合って
涙を流した。

宗沢は享年七十歳。

北宋の再興という仕事に命をかけた彼は、
金軍に恐れられたという。

金軍の一軍が長江(ちょうこう)を渡って
健康(けんこう)を陥れた。

その地を守っていた宋の諸臣は皆、
金軍に降参したが、楊邦乂(ようほうがい)
だけは従わなかった。

わが身を刺し、
血で衣の裾にこう書き付けた。

「むしろ趙(ちょう)氏(宋王朝)のために
 死んで鬼となっても、
 他国の臣にはならない」

大勢の人間が抱きかかえて金軍の大将に
面会させた。

その大将は楊邦乂の気概に感服し、
幾日にもわたり味方になるように誘ったが、
楊邦乂はそのたびに叱り罵ったので、
ついに殺されてしまった。

南宋の重臣、張浚(ちょうしゅん)は、
幾度も将として金軍と戦い、時には勝ち、
時には敗れながら最後まで徹底抗戦を
貫いた。

最後は張浚を嫌う者の工作によって
罷免され、間もなく死去した。

張浚は自分の身を国に捧げようとする心が
白髪頭になるまで少しも変わらなかった。

死ぬまで金との和睦に反対し、
死ぬ間際に二人の子にこう言い残した。

「私は宋王朝のために中原(ちゅうげん)
 を回復して、国の恥を雪(すす)ぐこと
 ができなかった。

 先祖に申し訳が立たぬ。

 私が死んでも先祖の墓に埋葬しないで
 おくれ」

命をかけられる仕事がある者は幸せである。

北宋の復興に努力して金と戦った者たち
からは、富に対する執着は感じられない。

宋王朝の臣下であるということに誇りを
もち、富よりもはるかに大事なものを
守ろうとしていたのである。

→続く「人が富以外で欲しがるもの(3)謝安、身内を推挙す」
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