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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

人間の本能とはいかなるものか、放っておくと何をする生き物か


人間は環境に大きく左右される
生き物である。

「十八史略」は神話の時代からスタート
しているが、例えば、天皇(てんこう)氏
という太古の王は兄弟が十二人あって、
それぞれが一万八千年の寿命を保った
という。

燧人(すいじん)氏の時代になって
ようやく、火でものを煮たり焼いたりして
食うことを人民に教えたとある。

つまり、火の使用以前の時代から
書かれているのである。

太コウ伏羲(たいこうふくき)氏に
いたっては、体は蛇、首は人であった
そうだ。

こうした神話は後世に創作されたもので
あろうが、実際に神代の時代には、
大自然の前に人間はひれ伏すしかなく、
「私欲」を抱く余裕はほとんど無かったと
思われる。

人類は力を合わせて生きていかねばならず、
自分を抑え、和を大切にせざるを
えなかっただろう。

王と庶民の差もそれほど開きが無かったに
違いない。

ところが、時代が下って人類が少しずつ
知恵を身につけ、自然に対抗する手段を
身につけるようになると様子が
変わってくる。

先の太コウ伏羲氏は「易経」の元になる
八卦を作った。環境変化に対応しようと
する考え方の先駆けである。

炎帝神農(えんていしんのう)氏は
農業、医薬品、市場などを開発した。

農業が行われるようになると、
秋に収穫したものを保存しておけば
不作の年にも対応できるし、
薬があれば病気を治せ、
必要なものは市場で交換して
入手できるようになったのだ。

これらが史実であるか否かは別としても、
こうして人類が自らの知恵で命を長らえる
だけでなく、人生を積極的に楽しむ存在に
変わってきたのは間違いない。

炎帝神農氏の子孫の世が全部で八代、
五百二十年続くが、炎帝の徳が衰えるに
従い、諸侯がたがいに侵し攻め合う中、
炎帝の子孫に代わって王となった
黄帝(こうてい)は、舟や車を作り、
太陽、月、星の動きから天文の書を作り、
暦を作り、計算法を作り、音楽のもとを
作ったという。

ちなみにこの黄帝は、
「孫子の兵法」(行軍篇)にも、
四種の地勢(山岳・河川・沼沢・平地)に
応じて適切に軍を進め、
他の四帝(赤帝・青帝・黒帝・白帝)に
勝った人物として登場している。

生きることに余裕が出てくると、
さまざまな欲望が湧いてくるものである。
そして、この欲望が争いの種になる。

儒教の経典「大学」に、

「小人(しょうじん)間居(かんきょ)
 して不善を為し、至らざる所無し」

(低レベルの人間は暇があると善くない
 ことを考え、とりとめなく欲望のままに
 動く)

さらに

「君子(くんし)は必ずその独りを
 慎(つつし)むなり」

(徳のそなわった者は、誰も見ていなく
 ても慎んで不善を為さない)

とある。

裏を返せば、わざわざ教科書で
このように指摘し、欲望に支配される者を
減らす努力をしないと、人間は次から次へと
自分の心に生まれる欲望に突き動かされ、
周囲を巻き込んで不幸を製造する機械に
成り下がるというわけだ。

「老子」の第三章には

「聖人の治(ち)は、その心を虚(むな)し
 くしてその腹を実(み)たし、その志を
 弱くしてその骨を強くし、常に民をして
 無知無欲なら使(し)め、夫(か)の知者
 をして敢(あえ)て為(な)さざら使む。
 無為を為さば則(すなわ)ち
 治まらざること無し」

(聖人の政治は、心から知識を取り除いて
 腹をいっぱいにさせ、こころざしを
 弱めて筋骨を強く丈夫にさせ、
 いつでも人民を知識も欲望もない状態に
 おき、あの人民を操作しようとする
 知恵者どもが何もできないようにする。
 この無為自然な政治を行えば
 治まらないことはないのだ)

とある。

こちらは、

そもそもの欲の発生源を取り除いてしまえ

という教えである。

こういった欲望を放っておくと、
果たしてどのような事態に
陥るのであろうか。

夏后氏(かこうし)禹(う)が開いた
夏王朝の十七代目の王である履癸(りき)
(後に桀(けつ)と呼ばれる)は、
欲張りで人をいたぶることを好み、
力が強くて鉄のくさりも軽々と引き伸ばせる
という人物だった。

この桀が諸侯のひとりである
有施(ゆうし)氏を伐(う)った際、
有施氏は末喜(ばっき)を側室として
献上した。

桀は末喜を寵愛し、言うことを何でも
聞き入れ、従ったという。

宝玉をちりばめた宮殿や楼台(ろうだい)を
造り、人民の財産を取り尽くしたため、
人民は窮乏に陥った。

また、肉を山のように積み上げ、
乾し肉を林のようにかけて、
酒をたたえた池には船を浮かべ、
酒糟(かす)で作った堤は十里先まで
望めるほどのものであった。

一たび太鼓を鳴らせば、
まるで牛が水を飲むように三千人もの人間が
池に顔をつけて酒を飲んだ。

末喜はこのような光景を見て楽しむ女だった
のである。そういうわけで、民の心は
王室からすっかり離れてしまった。

そうしてついに、殷(いん)の湯(とう)王
に征伐された。

桀は鳴条(めいじょう)という地に逃げ、
そこで死んだという。

これと極めて似た失敗の経路を
たどったのが、殷王朝の二十九代目、
紂(ちゅう)王である。

紂は生まれつき弁舌巧みで
動作はすばしこく、
猛獣を手打ちにするほどの腕力があった。

その悪がしこさは諫言する者を
逆にやり込めてしまうし、
自分の非をとりつくろうのも
お手の物だった。

はじめて象牙(ぞうげ)の箸(はし)を
作ったとき、これを聞いて
叔父の箕子(きし)はこう嘆いた。

「箸を象牙にしたならば、今度はきっと
 食物を盛るにもかわらけを用いず、
 玉の杯を作ることだろう。

 玉の杯、象牙の箸を用いる以上、
 きっと野草の吸い物、粗く織った衣、
 茅ぶきの家などの質素な生活は
 しなくなるに違いない。

 錦の衣を重ね、壮麗な宮殿を建て、
 万事においてこれとつり合うように
 求めていけば、天下の財をすべて
 集めても足りなくなるだろう」

と。

あるとき、紂が諸侯の有蘇(ゆうそ)氏を
攻めた際、有蘇氏は妲己(だっき)という
美女を側室にと献上した。

紂は妲己を寵愛し、彼女の言うことなら
何でも聞いた。

租税を重くし、
財宝を入れる鹿台(ろくだい)と
米穀を入れる鉅橋(きょきょう)という倉を
いっぱいにしたり、
沙丘(さきゅう)の庭園を広げて、
酒の池、肉の林を作り、
夜通し酒宴に耽った。

人民はみな紂をうらんで、
諸侯の中にもそむく者が現れた。

そこで紂は刑罰を重くした。
銅の柱を作って油を塗り、
これを炭火の上に置き、
罪人にその上を歩かせたのである。
罪人の足が滑り、
ふみはずして火のなかに落ちるのを観て、
紂と妲己は大いに楽しんだという。
これを「炮烙(ほうらく)の刑」と
名づけた。

紂王が女色を好み、
人民をしいたげるあり様を見かねた
異母兄の微子(びし)が何度も諫めたが
聞きいれないため、微子は国外に去った。

叔父の比干(ひかん)が執拗に諫めたら
紂は逆上し、

「聖人の胸には七つの穴があるそうだな。
 見せてもらおう」

と、すぐに殺して解剖し、胸を調べた。

危険を感じた叔父の箕子は狂人を
よそおって奴隷となったが、
紂は捕らえて獄に閉じ込めた。

当時、最高の官職であった三公に、
周(しゅう)の太守昌(しょう)
(のちの文王)、
及び九(きゅう)の太守、
鄂(がく)の太守がいた。

紂が九侯を殺したので、
鄂侯が諫めたところ、
紂は鄂侯も殺してしまい、
二人の死骸を乾し肉にした。

昌がこれを聞いて嘆息したと知った紂は、
昌を捕らえてユウ里(ゆうり)という地に
監禁した。

そこで昌の臣である散宜生(さんぎせい)ら
が美女や珍宝を探してきて紂に献上すると、
紂はとても喜んで昌を釈放した。

昌は自分の国に帰り、善政を施したので、
諸侯には次第に紂にそむいて昌に心を
寄せる者が多くなった。

昌が亡くなり、子の発(のちの武王)が
立った。そしてついに、諸侯を率いて紂を
征伐した。

牧野(ぼくや)の地で大敗した紂は、
宝玉を身にまとって火中に飛び込み、
死んだのである。

夏の桀王も殷の紂王も、
実際にここまでひどかったのか、
本当のところは分からない。
共に創作である可能性もある。

しかし、この二人が共通して、美女、酒、
財宝などに目がくらみ、
人を思い通りに動かすことを面白がり、
結果として人民を苦しめ、
人心離反の結果を招いたという顛末からは、

いかに人間が同じような欲をもち、
同じように失敗する存在であるか


を学ぶことができるのではないだろうか。

中国では大昔から、
人の心の中に潜む欲望こそが大敵である
ことを見抜いていた。

孔子、老子を始めとする賢人たちは
それを制御することで幸福が得られると
説いてきたが、「十八史略」を読むと、
まさにその通りであるという感を
抱かざるを得ないのである。

→続く「親子・兄弟(1)天子継承三方式」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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