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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

 規律と柔軟性の匙加減(1)   王導の柔軟さ      


規律にこだわり過ぎると組織が硬直化し、
変化に対応できない場面が出てくる。

だからといって規律がなく、
上から下まで場当たり的で勝手な判断を
していたら、組織はバラバラとなり
簡単に崩壊してしまう。

現実的には、規律を重んじながらも
時に応じて柔軟に対応すべし、ということに
なるが、その匙加減はなかなか難しい。

東晋(しん)王朝の中宗元(げん)皇帝は、
王導(おうどう)を参謀長に任じ、
何ごとも彼に相談するようにしていた。

元帝はもともと名声もなく、
評判も低かった。

西晋が滅んで洛陽から江東(こうとう)地方
に移ってきたばかりでもあり、呉(ご)の
人々は彼を信頼しようとしない。

そこで王導は、既存の家臣にこだわらず、
旧呉の名望ある人物を数多く任用するよう
建策。

そして、新しく官に就いた者や、
旧(ふる)くからいる者を同じように
ねぎらい、安んじたので、江東一帯の民心は
ことごとく元帝に帰した。

元帝の招聘した名士は百余名にのぼった。

これを百六掾(ひゃくろくえん)という。

王導は元帝を始めとして
三代の帝につかえたが、
一貫して柔軟であった。

顕(けん)宗成(せい)皇帝の頃のこと。

王導は家柄がよいということで、
王述(おうじゅつ)
(のちに尚書令〈しょうしょれい〉にまで
出世した)を属官にした。

王述は三十歳になっても名を知られず、
世間から馬鹿扱いされていた。

その後、面会したとき、王導は
江東(こうとう)の米相場を王述に尋ねた。

王述はただ目を見張り、
ひとことも口をきかなかった。

くだらない質問には答えられない、
という態度である。

この反応を見て王導はにっこりうなずき、

「王述は馬鹿ではない」

と言った。

また、王導が言葉を発すると、
そのたびに一座の者たちが皆、
賛成してお追従(ついしょう)を
述べ立てた。

王述は顔色を正して王導に向かい、

「人間は堯(ぎょう)や舜(しゅん)の
 ような聖人ではありません。

 どうして毎回、
 万全であることができましょうか」

と意見した。

王導は、はっと居ずまいを正して、
この忠言に感謝したという。

王導の性質は寛大で人間味が厚かったが、
そのため、用いている諸将のなかには
法を軽視する者も多かった。

大臣たちはこの点を心配した。

当時、武昌(ぶしょう)の地にいた
ユ亮(ゆりょう)という将軍が、
兵を起こして王導を失脚させようと
画策していた。

ある人がこっそりと王導に
用心するよう勧めたが、王導はこう言った。

「自分とユ亮は、国家のために喜びと
 悲しみを共にする仲だ。

 もし彼が攻めて来たら、私はすぐに職を
 捨て隠者となって自邸に帰ろう。

 何を恐れる必要があるだろうか」

ユ亮は地方におりながら朝廷をあやつり、
長江上流の要衝をおさえて
強兵を抱えていた。

そのため勢いのある方につこうとする者の
多くがユ亮についた。

そのような状況であったので、
王導は内心、おだやかではなかった。

あるとき、西風で塵が舞い上がる中、
王導は扇で顔を覆いながら静かに言った。

「ユ亮の方から吹いてくる風が私を汚す」

王導は、簡素で欲が少なく、
時宜に適した政策を打ち出して
成果を収めた。

すぐに目に見えるような利益はなくても、
一年経って計算すると余りがある
といった按配であった。

三代の天子の補佐をしながら、
自分の倉には米の蓄えも無く、
衣服は絹物を重ねなかった。

極めて質素な生活を送ったのである。

王導は、東晋王朝が脆弱な基盤の上に
かろうじて成り立っているという現実を
見て、北来の貴族と江南土着の豪族の
バランスをとり、厳しく統制せず、
柔らかく、ゆるやかなまとめ方をした
のである。

→続く「規律と柔軟性の匙加減(2)陶侃の厳格さ」
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