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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

5.富と繁栄編

隆盛を極めていくときの条件(1)公孫鞅の改革      


太古の昔も現代も、軍事力はその国の力
そのものと言ってよいほど重要である。

軍事力が大きい国は発言力も強い。

逆に弱い国の発言は聞き流されてしまう。

特に軍事に詳しくなくても、
世界の国々の力関係を考えてみれば
はっきりと分かるだろう。

この軍事力と切っても切れない関係にある
のが「富」である。

国が富めば富むほど、
軍事予算を増やすことができ、
軍事力を増強できるのだ。

日本でも、
明治政府は「富国強兵」を国策とした。

国を富ませることは、
国家最大の課題といってもよいのである。

戦国時代の初期、黄河・華(か)山以東に、
強国が六つ、小国が十余あったが、
どの国も皆、秦(しん)を野蛮国とみなし、
排斥して、諸侯の会盟(かいめい)
(覇者が諸侯を集めて盟約を結ぶこと)
にも参加させなかった。

そこで秦の孝(こう)公は、
触(ふれ)を出した。

「他国からの客人、わが家臣を問わず、
 今までとは違う新しい策を出して
 秦を強くしてくれる者があれば、
 私はその者に高い地位と領地を与える」

これを知り、衛(えい)の
公孫鞅(こうそんおう)が秦にやってきた。

彼は孝公の寵臣を介して
孝公にお目見えした。

公孫鞅はまず帝道(堯(ぎょう)
・舜(しゅん)らが行った、
無為にして人民を教化する政治のやり方)
を説いた。

次に王道(夏(か)の禹(う)王、
殷(いん)の湯(とう)王、
周(しゅう)の文(ぶん)王が行った、
仁義道徳で人民を教化する政治のやり方)
を説き、三度説を変えて覇道
(斉(せい)の桓(かん)公、
晋(しん)の文(ぶん)公らが行った、
武力をもって諸侯を支配する政治のやり方)
を説き、そして富国強兵の具体策を示した。

孝公は覇道や富国強兵の話を聞いて大いに
喜び、ただちに法令を変えようと思った
けれども、人民の批判が自分に集まる
ことを恐れて迷った。

公孫鞅はこう言って決断を促した。

「人民というのは、
 共に物事の始めを相談することは
 できないけれども、
 共に物事の成功を楽しむことは
 できるもの。
 気になさらず、進めることです」

孝公はついに法令を改定した。

次のような内容である。

「人民に五軒と十軒の隣り組を作らせ、
 互いに監視し合い、一軒に罪を犯す者
 あれば、組内の者、皆同罪とする。

 人の不正を知りながら告発しなかった者は
 腰斬(ようざん)の刑に処す。

 不正を告発した者は敵を斬ったのと
 同じ賞を与える。

 不正を隠した者は敵に降参したのと
 同じ罰を与える。

 戦(いくさ)で手柄のあった者は
 それぞれの功の軽重(けいちょう)に
 応じて爵位を授ける。

 個人的な争いには程度に応じて刑を
 科する。

 老若男女、皆、力を合わせ、耕作、
 機織(はたおり)を本業とし、穀物と
 織物を多く納める者は夫役(ぶやく)
 (労働で納める課役)を免除する。

 それ以外の商工業などを仕事とする者、
 怠けて貧しい者は検挙して、
 その妻子を没収して官の奴隷とする」

こうして法令が出来上がったが、
すぐには公布しなかった。

まず、高さ三丈の木を人通りの多い市中の
南門に立てた。

そして、民を募り、

「これを北門に移した者には十金を与える」

と告げた。

人民はこれを怪しんで、
移そうとする者は誰もいなかった。

そこでさらに、

「これを北門に移した者には五十金を
 与える」

と告げた。

すると一人の者が出て、それを移した。

公孫鞅はすぐに五十金を与えた。

こうして法が実行されることを示した
うえで、新しい法令を公布した。

あるとき、太子が法を犯した。

公孫鞅が言うには、

「法令を人が守らないのは、
 上に立つ者がこれを犯すからである。

 しかし、世継ぎである太子を刑に
 処すわけにはいかない」

と。

そこで、守(もり)役の公子虔(けん)を
処罰し、さらに教育係の者を入れ墨の刑に
処した。

これを見て、秦の人は皆、
法令に従うようになった。

新法を行うようになって十年が経過。

道に落し物があっても誰も拾わず、
山には盗賊も出ない。

どの家でも物が満ち足り、満足し、
人民は国の戦いともなれば勇んで戦うが、
個人の争いには消極的になり、
町や村は大変よく治まった。

最初の頃、新法に対して不満をとなえて
いた者たちが公孫鞅を訪問しては
新法の良さを褒め称えるようになった。

しかし、公孫鞅は、

「この者たちは皆、法を乱す民である」

といって、ことごとく辺境に移した。

それ以来、新法についてあれこれと
議論する者はいなくなった。

さらに公孫鞅は、父子兄弟が一軒の家に
同居することを禁じ、従来の
井田(せいでん)法を廃して、
あぜ道を開いて耕地とし、
改めて租税の割り当ての方法を作った。

こうして秦は国が富み、兵が強くなった。

孝公は公孫鞅の功を賞して、
商(しょう)・於(お)以下十五の
邑(むら)を与えたので、
彼は商君(しょうくん)と呼ばれるように
なった。  

公孫鞅の大改革により、
秦は富国強兵を実現したといってよい。

法令を敷き、
徹底して人民に守らせることによって、
よく統制のとれた国家が出来上がったので
ある。

→続く「隆盛を極めていくときの条件(2)文帝の徳治」
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