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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

4.戦争と殺戮編

殺戮とその代償 白起の末路      


「十八史略」には殺戮(さつりく)、
つまり、むごたらしく多くの人を殺した話が
いくつか出てくる。

やらなければ逆にやられる、
というような恐怖が人を殺戮者に
してしまうものと思われる。

戦国時代末期、長平(ちょうへい)の地で
秦(しん)が趙(ちょう)を攻めたときの
ことである。

趙の大将で歴戦の猛者、
廉頗(れんぱ)は城壁を堅固に守り、
出て戦わなかった。

すると秦は金で反間(はんかん)(敵の間者
を逆にこちらの間者として利用すること)を
雇い、趙に送り込んで王にこう報告させた。

「秦はただ名将であった趙奢(ちょうしゃ)
 の子、趙括(ちょうかつ)が大将となるの
 を恐れているようでございます」

この報告を信じた趙王は、
廉頗にかえて趙括を大将に据えた。

この人事に対して、
重臣の一人が諫めて言った。

「わが君には評判がよいということで趙括を
 お使いになりますが、彼の戦争の仕方は
 まるで琴柱(ことじ)を琴に貼りつけて
 しまった、千変万化の音色の出ない琴の
 ようなもの。

 父の兵法書はよく読んでおりますが、
 臨機応変の指揮が出来ません」

しかし、王は聴き入れなかった。

趙括は幼い頃から兵法を学び、
天下に自分に勝る者はないと
うぬぼれていた。

父と兵法を論じ合っても、名将の父ですら
やり込めることができなかった。

しかし、父は息子の趙括の言葉が
正しいとは認めなかった。

趙括の母がその理由を尋ねると、
父はこう言った。

「実際の戦争は死ぬか生きるかという
 場所である。

 それにも関わらず、
 あいつはこれを軽く考えておる。

 もしも、
 括(かつ)を大将に据えるならば、
 きっとわが趙の軍を
 敗北に導いてしまうだろう」

そこで母は、趙括が将(まさ)に大将として
出発しようとしているとき、王に上書して、

「括を使ってはなりません」

と申し上げたが聞き入れられず、
趙括は大将として長平軍に赴任した。

そして、秦(しん)の大将白起(はくき)に
敗れ、射殺された。

四十万の兵卒は秦に降参したものの、
長平で生き埋めにされてしまったのだ。

「史記」によれば、秦の白起は敗走すると
見せて奇襲を仕掛け、敵の糧道を断ち、
趙軍を二つに分断した。

これで士卒の趙括への信頼は薄れた。

四十日余りが過ぎ、軍は飢餓状態に陥った。

趙括は精鋭部隊を率いて
みずから陣頭に立ち、突撃したが、
秦軍によって射殺された。

降伏した趙の士卒は四十万人にのぼり、
白起はその処置について検討して言った。

「以前、我々は韓(かん)の国の
 上党(じょうとう)を陥れたが、
 上党の民は秦の民となることを
 嫌って趙へ逃げてしまった。

 おそらく趙の士卒も結局は裏切るだろう。
 
 皆殺しにしておかなければ、
 将来、反乱を起こすに違いない」

そこで白起は、うまくだまして、
ことごとく生き埋めにして殺したのである。

許されたのは幼少の者二百四十人だけだった
という。

趙括は机上の兵法には強かったが、
あまりに経験が少なかった。

それで名将白起にやられてしまったのである
が、逆に白起は過去の経験が彼を殺戮へと
向かわせてしまったのだ。

今、殺しておかねば、
将来、どんな仕返しをされるか分からない。

このような心理から四十万人を殺した白起で
あったが、秦の国内では白起の勢力が巨大化
するのを恐れた宰相の范雎(はんしょ)に
よって行動を制限されるようになった。

宰相に不信感を抱いた白起は、その後、
秦王に出兵を命ぜられても拒み、
さらに王の策を批判したので、
激怒した秦王に自害を命ぜられた。

白起は剣を抜き、
自分の首を切ろうとしてこう言った。

「私は天に対し、どんな罪があって、
 こうなってしまったのか」

しばらく考えた後に言った。

「いや、私はもとより死ぬべきである。

 長平の戦いにおいて、降参した趙の士卒
 数十万人をだまして生き埋めにしたの
 だから。

 当然の報いだ」

そして、命を絶った。

宋(そう)の太祖皇帝、
趙匡胤(ちょうきょういん)は
殺戮を嫌った。

あるとき、帝が武成(ぶせい)王
(周の太公望〈たいこうぼう〉
 呂尚〈りょしょう〉)
の廟に参詣した際、
廟内に祀(まつ)られていた武将二十七人の
中に秦の白起の像があった。

帝はこれを指さして、

「白起はすでに降参した趙の士卒を生き埋め
 にした人物だ。

 武の徳に背いている」

と言い、像を取り除くよう命じたという。

殺戮などすると、
後の世にまでその不名誉な記録が
語り継がれてしまうのである。

本当の敵は誰なのか? 

これをよく考えてみる必要がある。

白起は趙軍の四十万人を敵としたが、
手厚く遇して味方にすることは
できなかったのだろうか。

いつの時代も、殺戮をした側は、

「あの殺戮は正しかった」

と振り返るものであるが、
正しい殺戮など一切ないと
いうことは断言できる。

企業においても、
競合他社を陥れるような宣伝をしたり、
社員を大量に解雇したり、
派閥抗争をして社内の敵を追い落としたり
といったことが時折、見られるが、
これらはすべて怨みを生む結果となる。

人の怨みは長期間に渡って自社にマイナスに
働き、最悪の場合は自社を滅亡に導くことも
ある。

なるべくならば、
人の怨みを買わない経営を行うに
越したことは無い。


→続く「敵を生かした場合、殺した場合に起きること…(1)句践の復讐」
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