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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

4.戦争と殺戮編

 戦に勝った後の行動(2)   外患収まれば内憂が      


西晋(しん)の
世祖(せいそ)武(ぶ)皇帝は、
呉(ご)を滅ぼして天下を平定したいと
思っていたが、朝廷内の重臣たちの
ほとんどは反対していた。

あるとき、少数派で呉の討滅に熱心な将軍の
一人が出兵するよう上書して要請すると、
武帝はついに決裁を下した。

これを知った吏部尚書(りぶしょうしょ)
(人事院長官)の山濤(さんとう)は、

「聖人でない限りは、

 外患が収まれば必ず内憂が起こる

 ものである。

 今は呉を外患のままに置いておき、
 内政に専念するほうが得策では
 ないだろうか」

と人に告げたという。

西晋はいよいよ大軍を繰り出して
呉を討伐することになり、
水軍と陸軍に分かれて攻め下った。

呉の側では、長江の要所要所に鉄の鎖を
張りめぐらして通行を遮断した。

また、長さ二・五メートル余の鉄の
錐(きり)を長江の水面下に設置し、
晋の軍艦を妨害しようとした。

これに対して晋側は、
大きな筏(いかだ)を作り、
水泳の上手な者を選んで乗せ、先行させて、
鉄の錐にぶつかるたびに錐を筏につないで
流し去るという対策をとった。

また、大きな松明(たいまつ)を作り、
これにごまの油を注ぎ、
鎖とみればその火で焼かせた。

しばらくすると鎖は融けて切断した。

このようにして、船の進行に支障なく、
水軍は長江上流の諸郡で呉軍に勝つことが
できた。

一方、陸軍は、部下に奇兵を率いさせ、
夜にまぎれて長江を渡らせた。

呉の将軍は、

「北から来た晋の軍は、
 長江を飛び越えたのか」

と言って恐れた。

陸軍の一部は水軍と協力し、中流の要衝で
ある武昌(ぶしょう)を攻めて陥落させた。

この段階で陸軍の大将はこう言った。

「兵の威力は大いに奮っている。

 たとえれば、刃物で竹を割るようなもの
 で、最初、二節か三節、力を入れて
 割れば、後は竹の方から刃物を迎え入れ、
 割れてしまう。

 これと同じで、今はこちらが力を入れる
 必要も無いという状態だ」

こうして各武将に戦略を授け、命令を発し、
呉の都建業(けんぎょう)に向かわせた。

水軍八万人も延々と船を連ね、
帆をあげて建業へと進んだ。

そして、太鼓を打ち鳴らし、
鬨(とき)の声を挙げて
石頭(せきとう)城へと突入した。

観念した呉王孫皓(そんこう)は、
作法どおりに両手をうしろに縛って顔を
前へ差し出し、
棺桶を従えて降伏を申し出た。

呉は、孫権(そんけん)から四代、
帝を称すること合計五十二年で亡んで
しまった。

西晋の武帝は即位の当初、雉(きじ)の
頭の毛で織った裘(かわごろも)などの
贅沢(ぜいたく)品を太極(たいきょく)殿
の前で焼き捨て、
倹約の模範を示したほどであった。

ところが、呉を亡ぼして天下を平定すると
気がゆるんでしまった。

大奥には数千人の宮女を置き、
羊に引かせた車に乗って往来した。

宮女たちは羊の好む竹の葉に塩を
ふりかけたのを入り口にさして、
羊の車が来るのを待った。

武帝は羊が止まったところで盛んに
酒宴を張った。

群臣と国政に関する計画を相談することも
絶えて無くなった。

もはや天下は太平であるといって、
ことごとく州郡の軍備を
取り去ってしまった。

ところで、漢(かん)や魏(ぎ)の頃から、
姜(きょう)族や鮮卑(せんぴ)族などの
異民族で中国に降伏した者たちが、
国境内の各郡に多数住みついていた。

これが治安維持上の問題になると
考えた検察官の一人が、

「呉を滅ぼし、威光の輝いている今こそ、
 内地に雑居している異民族を辺境に
 移住させ、四方の蛮(ばん)族の
 出入りに対する防御を厳重にし、
 先王の定めた中華と蛮族のけじめを
 明確になさるのがよろしい」

と上書した。

しかし、武帝が耳を傾けることは無かった。

このことが、後に天下の患(うれ)いと
なるのである。

武帝の死後、暗愚な孝恵(こうけい)皇帝が
即位すると、朝廷では皇后の一族が政治を
牛耳るようになったが、これが発端となって

「八王の乱」

と呼ばれる皇族同士の内乱が発生した。

この内乱につけこんで、
北方の姜族や鮮卑族の国が蜂起し、
晋を華北から追い出して、
南北朝の時代となるのである。

呉との戦いに勝ったことが、
西晋を亡ぼす遠因となったのである。

このように、勝った後、
成功した後というのは、
どうしても気がゆるむものだ。

企業においても、成功後に生活が派手に
なっていく社長を数多く見かける。

私は、その後に業績が悪化し、
深く反省して建て直した社長の話ばかりを
伺う機会が多いが、裏を返せば、
倒産させてしまった社長とは話をすることが
ほとんど無いからであろう。

「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」

とは誰もが知っていることわざである
けれども、実際にこれが出来る人は少ない。

緒をゆるめて傷をつけてしまうとしても、
失敗経験として後に語れる程度の傷に
止めねばならない。

→続く「殺戮とその代償(1)伯起の末路」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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