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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

4.戦争と殺戮編

戦に破れるとどうなるか(1) 符堅の見通しの甘さ      


東晋(しん)王朝の後期、
前秦(ぜんしん)の皇帝符堅(ふけん)は
一時期、華北を統一した。

前秦が拡大したのは宰相であった
王猛(おうもう)の存在が大きい。

符堅は初めて王猛と会ったとき、
たちまち旧知のように親しくなり、

「劉備玄徳(りゅうびげんとく)が
 諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)
 を得たのと同じだ」

といって喜んだという。

符堅は優れた人物を抜擢し、
廃れた官職を整え、
民に農耕や養蚕を割り当て、
困窮者をあわれむという政治を行ったので、
前秦の人民の圧倒的な支持を集めた。

王猛は諸軍を指揮して前燕(えん)を
伐(う)ち、符堅は前燕の君主である
慕容イ(ぼようい)を捕らえて前燕を
亡ぼした。

しかし、その数年後、王猛は死去する。

符堅は心の底から嘆き悲しんで言った。

「天は私に天下を統一させることを
 欲しないのであろうか。

 なぜ私の大事な王猛をこんなに早く
 奪い去ってしまうのだろう」

王猛は臨終に際して、
符堅に次のように述べた。

「東晋(しん)の国は江南(こうなん)に
 片寄った地方の王朝ですが、
 依然として正当な王朝であり、
 君臣の上下の間も安らかで
 崩れておりません。

 私の死後も、どうか東晋の地を奪おう
 などとお考えにならないように願います。

 むしろ、鮮卑(せんぴ)の
 慕容(ぼよう)氏や西姜(せいきょう)の
 姚(よう)氏などを内部に抱えているのが
 問題で、彼らこそわれらの仇敵です。

 最後には心配の種となりましょう。

 徐々に彼らを取り除いて国家の安泰を
 おはかりください」

こう言われたにも関わらず、
符堅は東晋に対して軍事行動を起こした。

家臣のなかに、

「東晋には長江(ちょうこう)という険阻な
 要害があります。

 甘く見てはなりません」

と諫める者がいても、符堅は、

「わが大軍をもってすれば、
 軍勢の馬の鞭(むち)を投げ入れただけ
 でも川の流れをせき止められるさ」

と豪語した。

当時、前秦の朝廷では圧倒的に東晋攻めに
対して反対意見が多かったのだが、
慕容垂(ぼようすい)と姚萇(ようちょう)
だけは、符堅の出征のすきに乗じて反旗を
翻そうとたくらみ、積極的に賛成した。

先に

「勝敗を本当に分けるもの」

の項で述べたように、符堅はこの

「肥水(ひすい)の戦い」

で惨敗を喫する。

東晋軍からの

「少し退却して欲しい」

という要請を受け入れたところ、
前秦軍の退却の勢いは止まらなくなり、
総崩れとなったのである。

この敗北後、符堅はあわてふためいて
長安(ちょうあん)に逃げ帰った。

慕容垂は前秦に背き、河北(かほく)で
独立して燕(えん)王と称した。

同じく姚萇も背いて、北地(ほくち)で
自立して、自ら秦王と称した。

これを後秦(こうしん)という。

慕容氏の一族である慕容沖(ぼようちゅう)
も平陽(へいよう)の地で兵を起こし、
皇帝を自称した。

これを西燕(せいえん)という。

西燕が長安を攻撃したので、
前秦王の符堅は都を捨てて逃れたが、
後秦王の姚萇に捕らえられ、
ついに殺されてしまった。

符堅は人望が厚かった。

しかし、内部の不平分子にも厳しい目を
注がず、甘く見た。

死に臨んだ王猛の最後の助言を無視して
慕容氏や姚氏を除かず、
東晋とも戦ってしまった結果、敗れ、
国は分裂して、最後は殺されたのである。

人間は勝者に温かく、敗者に冷たい。

まして、日ごろから不満を持っている者は
ここぞとばかりに歯向かってくるもので
ある。

誰が本当の味方か、誰が敵か、
よく見極めておかねばならない。


→続く「戦に破れるとどうなるか(2)愛妾の肉を食らう」
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