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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

4.戦争と殺戮編

生き残る者の思考と行動学(3)生ける仲達を走らす      


三国時代、蜀(しょく)の
諸葛亮(しょかつりょう)孔明(こうめい)
は、昭烈(しょうれつ)皇帝、
劉備(りゅうび)玄徳(げんとく)の死後、
国力を増大させてから、
劉備との約束を果たすべく、
しばしば魏(ぎ)に対して戦を仕掛けた。

祁山(きざん)を包囲された魏は、
大将軍、司馬懿(しばい)を遣わし、
諸軍を統率して諸葛亮の軍を防がせた。

このとき、司馬懿はあえて戦わないように
したが、武将らが、

「公は蜀軍を虎のように恐れておられます。
 天下の物笑いとなっておりますぞ。
 どうなさるのですか」

と忠告してきたので、司馬懿は張コウという
将軍に命じて諸葛亮と戦わせた。

諸葛亮はこれを迎え撃ち、
魏軍は大敗北を喫してしまった。

しかし、その後、蜀軍は食料が尽きたため
退却した。

諸葛亮は何度か出兵して、
いつも食糧の運搬で失敗し、
志を遂げられなかったので、
軍隊を手分けして屯田(とんでん)させる
ことにして、また魏を攻めた。

そしてしばしば司馬懿に戦いを挑んだが、
司馬懿は応戦する気配を見せなかった。

そこで諸葛亮は、
使者に婦人用の頭巾と服をもたせ、
司馬懿のもとへ行かせて贈った。

臆病さをからかったのである。

司馬懿はその使者に、諸葛亮の寝る時間、
食べる量、仕事の忙しさの度合いなどを
尋ねて、軍事には触れなかった。

使者が、

「わが諸葛公は、朝は早く起き、
 夜は遅くに就寝し、杖罪(じょうざい)
 二十(杖で二十打つ軽度の罰)以上の
 ものは皆、自分でお調べになり、
 食事の量は少なくて、
 日に三、四合に過ぎません」

と答えると、
司馬懿は周囲の武将たちに言った。

「食事の量が少なくて仕事は多忙である。
 もう長くはあるまい」

司馬懿の予測どおり、
諸葛亮は病気になり重態に陥った。

ある夜、赤くて長い尾を引いた
大きな彗星(すいせい)が現れ、
諸葛亮の陣営の中に落ちた。

間もなく諸葛亮は亡くなった。

司馬懿は、諸葛亮の率いる蜀軍との戦いを
なるべく避けようとした。

仮に勝ったとしても、手ごわい敵と戦えば
自軍の消耗も激しい。

挑発にも乗らず、冷静に諸葛亮の状態を
把握して、死ぬのを待ったのである。

戦わずして勝つことを狙ったのだ。

しかし、諸葛亮も最後まで負けては
いなかった。

蜀軍があわただしく引き揚げるのを見た
土地の者から情報を得た司馬懿は
ただちに追撃を命じたのだが、
蜀軍の将軍姜維(きょうい)は、
旗の向きを変え、進軍の太鼓を打ち鳴らし、
いまにも反撃するかのように見せかけた。

司馬懿は用心して、
それ以上追撃しようとはしなかった。

土地の者たちは、

「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」

という諺(ことわざ)を作ったと聞いて、
司馬懿は苦笑しながら、

「生きている者のすることは察しがつくが、
 死んだ者は何をするやら分からんからな」

と語ったという。

諸葛亮はかつて兵法の原理を割り出して、

「八陣の図」

という軍隊の配備法を作っていた。

諸葛亮の死後、
司馬懿はその陣営の跡を調べてまわり、
嘆息してこう言ったという。

「諸葛亮は天下の奇才である!」

諸葛亮と司馬懿は好敵手であり、
両名とも勝てる条件が整わなければ
積極的に戦うことを避けた。

生き残る者とは、勇猛果敢さの裏に

慎重すぎるほど慎重

な面を併せ持っているのである。

企業においても、
まずは既存事業を収益の柱となるまで
じっくり育て上げることが重要だ。

ところが、少しうまくいかないからと
いって、すぐに他の儲かりやすいと思われる
新規事業に手を出す経営者がいる。

確かにチャンスと見たら果敢に動くことは
大事だが、どんな事業も長期間、
情熱を注がなければ大きな成果は
得られないものだということは
心得ておかねばならない。

燕の昭王が三十年かけて国力を
富ませたような辛抱強さが必要なのだ。

諸葛亮や司馬懿のように、
勝てる条件が整うまで待ち、
いざ勝負をかけるとなったら、
既存事業であろうが新規事業であろうが、
斉の田単のように命がけで取り組むこと。

こうした思考と行動が、
企業を長く存続させることに
つながるのである。

→続く「戦に破れるとどうなるか(1)符堅の見通しの甘さ」
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